〔1〕
デスクに積み上げられた書類に顔を埋め、神崎広司は深い溜息をついた。今抱えている問題が、せめて仕事絡みなら気が楽なのだが。
千葉県警捜査一課に配属されて三年が経つ神崎は、二十八歳という年齢から来年は警部補昇進試験を受けるつもりだった。事件の少ない今のうちに、なるべく勉強しておきたいのだが身が入らない。師走である来月に入れば、寝る間も無いほど忙しくなるというのに……。
少し伸びかけの髪を掻き上げネクタイを緩めると、神崎は椅子に掛けてある上着を羽織った。暖房が効きすぎたこの部屋に比べ、肌寒い喫煙所に行けば頭を冷やすのに丁度良いだろう。抱える問題の打開策も、見つかるかもしれない。
交通課の若い婦警が、数人固まって開け放されたドアの向こうを通り過ぎる。同じ署内にいながら、何故か近づきがたい存在に感じるのは自分だけだろうか。
「若い子はいいねぇ。あいつら多分給湯室だな、ちょっと茶菓子でもいただいてくるか」
向かいのデスクの濱田が、おもむろに立ち上がった。若い女の子に遠慮がないのは年の功か? もしくは、同じくらいの年頃の娘がいるためか。
「おまえの分もいるだろう?」
「はあ、自分は別に……」
返答を待たずに婦警の後から給湯室に入った濱田を見やって、神崎は仕方なく椅子に座り直した。
暫くして濱田は、自分用に茶を入れた湯飲みと、神崎にはコーヒーが入ったマグカップをトレーに載せ戻ってきた。神崎のカップは大抵、飲みかけのままデスクに置きっぱなしになっているのだが、多分、総務の子が給湯室に片づけてくれたのだろう。
カップと一緒に、濱田は綺麗な包み紙に入った焼き菓子を一つ神崎のデスクに置いた。
「最近出来た、近所のケーキ屋の新作だそうだ。聞いたことない店だな」
「ありがとうございます……ああこれは、かなり離れたところの店ですよ。大方パトロールのついでに買ってきたんでしょうね、彼女たちのチェックは、駐車違反だけではないようですから」
淡いピンクの薄紙に、白いレース模様。店の名は金色の文字で書かれている。
「おまえ、良く知ってるな。うん旨い、この店の場所教えろよ。かみさんに土産に買ってってやろう」
濱田はそこそこの大きさのある焼き菓子を、一口で食べてしまった。
「いいですよ。その店は、ケーキより焼き菓子が美味しいそうです。買いに行く前に、彼女達からお勧めを聞いていったらどうですか?」
「ううむ、若い子は苦手でなぁ……。おまえ、聞いておいてくれないか?」
思わず神崎は苦笑した。
「都合のいいことを言わないでくださいよ。濱田さんは苦手なんじゃなくて、面倒なだけでしょう? 何時もそうなんだからなぁ……俺だって女子と話すのは苦手です」
「早川とは、普通に話してるぞ」
「彼女は同僚です」
一瞬、意外そうな顔をした濱田は、神崎の言葉にニヤリと笑った。
「同僚は女子じゃないのか……早川が聞いたら気を悪くするぞ」
「やっ、止めてください。余計なことを言うと……」
「何の話ですか?」
慌てる神崎の後ろで、ハスキーだが感じの良い響きのある女性の声がした。
「あら、それ〔ラ・クレマンティーヌ〕の新作ですね」
「おう、早川も知っとるのか。給湯室に行けば、まだ残ってるかもしれんぞ」
濱田の言葉に、早川望は少し首を傾けた。否定するでもなく肯定するでもない時の、彼女の癖だ。
「私は甘いモノはあまり……でもそこの焼き菓子は割と美味しいですよ。実家の近くの、私がよく行くペットショップの隣なので母に買って来るように頼まれます」
「早川は辛党だったな、今度また飲みにいこうじゃないか。良い店を見つけたんだがね」
濱田の誘いをすまし顔でかわし、早川は二人の前に書類の束を置いて去っていった。後十五分ほどで始まる捜査会議の資料だろう。
声の届かないところまで早川が去った事を確かめ、神崎は濱田に向かって低い声で言った。
「濱田さんの良い店って、あまり女性向きではないでしょう? ただの酒好きならともかく、彼女だって気の利いたところで飲む方が好きだと思いますよ?」
「ううむ、気の利いた所ねぇ……それはたとえば、どんな所だ?」
濱田は、早川を誘うつもりなのだろうか。
「そうですね……ホテルのラウンジとか、あとは女性好みのカクテルやオードブルがあって、ムードのある音楽が低く流れているような……」
そこまで言って、神崎はまた頭を抱えた。
「俺にそれが解れば、苦労しないんですよ。ったく、どうしろって言うんですか!」
「な、なんだなんだ。そんなに悩むようなことを聞いたつもりはないぞ」
濱田が驚いて身を引くと、神崎は慌てて弁明する。
「すみません、違うんですよ。実は兄から頼まれ事をされたんですが……」
「頼まれ事?」
身を乗り出し興味深そうな顔をする濱田に、神崎はやれやれと溜息をついた。濱田は、他人の問題に首を突っ込むのが大好きだ。
「交通課の女子に人気のある店を、調べて欲しいって言うんです」
「そんなの調べてどうすんだ?」
「兄の会社の若い連中と、食事の場をセッティングしたいそうなんですよ……」
「おおっ、合コンってぇヤツかっ! それなら早川に聞いてみたらいいじゃないか?」
「それは……」
途端に神崎は口ごもった。
早川が以前在籍していたのは少年課だ。交通課の婦警と付き合いがあるようには思えない。それに後輩の同僚にコンパの話を持ちかけて、安っぽい男に見られでもしたら情けないではないか。
神崎の様子に、濱田が「ははん」と胸中を察した。
「俺が交通課に聞いてやってもいいぞ? おまえも、そろそろ身を固めた方がいいしな。刑事のかみさんは、やはり婦警が一番だ。その合コンには行くんだろう?」
「ええ……まぁ、多分」
「よし、俺に任せておけ!」
濱田が神崎の肩をぽん、と、叩く。
「捜査会議が始まりますよ!」
二人に向かって叫ぶ早川の声で、神崎は慌てて席を立った。