第19話 午前3時18分
約3時間前。
深まった深夜の橋に、一台の車が停まった。
運転席のドアが開く。
降りてきた男は、周囲を一度だけ見た。
それから、運河へ続く細い川に向かって、大きく右腕を振りかぶる。
黒い小さなものが、夜の中へ飛んだ。
水音は、小さかった。
――
「ここだといいですけどねぇ、班長」
僕の言った言葉に、
「だと嬉しいけどな〜」
と返した班長は、白いウィンドブレーカーを羽織っていた。
数時間前に男が立っていた場所へ、今度は僕たちが立っていた。
小型懐中電灯の光が、欄干の向こうへ落ちる。
細い川面が、白く揺れた。
「その犯人が、俺らに都合よく動いてくれるとは限らんからな。ここから投げられるってだけや。“ここで投げた”とは、まだ言えん」
班長のライトが、欄干の下をゆっくりなぞる。
水面ではなく、欄干。
それから、足元の歩道。
最後に、車道側。
投げた人間の動線を見ている。
そう思って、僕も周囲へ視線を向けた。
橋の反対側に立つ、銀色のポール。
その先端に、小型の監視カメラが設置されていた。
あ。
見つけた。
確か、この公園は管理人さんが24時間常駐していたはずだ。
「班長、あそこ」
「……知っとる」
先に監視カメラに気づいていたなら、言ってくださいよ。
そんな顔をしていたのだと思う。
班長は小型懐中電灯を消しながら、少しだけ口角を上げた。
「堀宮が気づくの待ってただけや」
「教育ですか?」
「仕事や」
そう言って、白いウィンドブレーカーの裾を払うように立ち上がる。
「管理事務所、行こか」
――
「はい。こちらが、監視カメラのSDチップになります」
管理人の男性が、小さなケースをカウンターへ置いた。
あの監視カメラはAI主導型らしい。
常時録画ではなく、人や車両の動き、一定以上の音、ライトの変化を検知した時だけ記録を残すタイプ。
つまり、何も映っていない時間は最初から存在しない。
便利だけど、少し厄介だ。
「午前3時前後、残っとります?」
班長の問いに、管理人は端末を操作しながら頷いた。
「3時18分から3時21分までの記録があります。車両接近で反応したようです」
僕は思わず、班長を見た。
けれど、班長の表情は動かない。
指先だけがカウンターの上を一度叩いた。
それは、喜んだ時の反応ではなかった。
何かが噛み合った時の、確認みたいな音だった。
「少し録画記録を見せてもらうって、できますか?」
班長の一言に、管理人さんが頷く。
「ええ。できます……少々、お待ちください」
そう言って、管理人さんはキーボードに指を置いた。
乾いた打鍵音が、事務所の中に小さく響く。
画面の端で、読み込みの輪が回った。
やがて、午前3時18分の夜が映し出された。
その映像の夜は曇り空で、ナンバープレートは不鮮明。
けれど、その代わりに、橋の上へ停まった車体ははっきり映っていた。
白い車体が。
これ。
毘乃木先輩が言っていた車なんじゃないか。
僕は単純に、そう思った。
ナンバーがもっとはっきり映っていればいい。
けれど、民間の監視カメラだ。
画質や角度に限界があるのは仕方ない。
SDチップを持ち帰って、月城さんたち『Hekatē』に解析してもらえれば、何か分かるかもしれない。
ただし、問題がひとつ。
管理事務所から601号車へ戻る道中、僕はそのことを口にした。
「……この時間って、隊長は起きてるんでしょうか?」
「寝てるんちゃう? さすがに。ひふみ先輩も今頃、仮眠室やと思う」
「ですよね……」
Hekatēは、第六の情報捜査チームだ。
けれど、頼めばすぐ動いてくれる便利屋じゃない。
正式に動いてもらうには、隊長の一声が要る。
なんてったって、Hekatēを作ったのは雪園隊長なのだから。
まあ、その当時を僕は知らない。
詳しい経緯も、正直よく分かっていなかった。
そこで、班長の足が止まった。
「……雪園隊長、起こすか」
「え」
僕もつられて立ち止まる。
「今は、このSDチップをなんとかすんのが先や。起こそ」
「え……だ、大丈夫なんですか?」
班長は少しだけ目を逸らした。
「……隊長の特技、早起きやから」
「それ、大丈夫の理由になります?」
「なる」
「なります?」
「なる」
「本当に大丈夫なんですね……?」
僕のその不安を置き去りにして、班長はもう隊長へ電話していた。
しかも、すぐ繋がった。
雪園隊長の「早起きが得意」は、嘘じゃないのかもしれない。
『――尻尾を見つけたか』
「えぇ、恐らく。その尻尾を掴むためにも、魔女を――第六きっての魔女の女王を起こしていただきたいんです」
一拍。
「今夜が終わる前に」
班長がそう言い切って振り返る。
午前5時が迫る夜空を、太陽の前座みたいなオレンジが水平線から染め出していた。
『……分かった。Hekatēを起こそう』
一拍。
『夜明けまでに、形にしろ』
――
赤坂・Uranus/地下二階――第六特命巡視捜査隊フロア。
仮眠室は静かだった。
ネットカフェのフラット席のように縦に仕切られた一角で、月城さんは熟睡していた。
101号室。
そこは、もはや私物化されていた。
城、と言ってもいい。
ゴロン、と正面へ寝返った月城さんの顔には、『醤油』と描かれた赤いアイマスクが乗っている。
「ぁ……堀宮ぁ、おかわり……うん」
不意に、枕元の内線が短く鳴った。
ワンコール。
……ツーコール。
赤いアイマスクの下で、月城さんの眉がぴくりと動く。
「……誰よぉ」
ほぼ無意識に、受話器を取った。
――ピッ。
「もし……」
『月城、出番だ』
その声だけで、寝ぼけた空気が消えた。
『Hekatēを起こす。3分で来い』
「……5分ください」
『3分だ』
「……はいはい、鬼上司」
通話が切れる。
月城さんは赤いアイマスクを額へ押し上げた。
数秒前まで夢の中にあった呼吸が、静かに整っていく。
眠たげな瞳は、もう笑っていない。
第六の魔女の女王が、夜明け前に目を覚ました。




