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流し  作者: 城間遙子
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-9-

   *   *   *

 

 突発的な休日は終わりに近づき、夕方近くになると、妻は干されて乾いている洗濯物から夫のパジャマと何本かのタオルを選び、それらをたたんで紙バッグに詰め込み、服を着替え、薄化粧をして家を出た。

 向かう場所は夫の入院する病院だった。

 最寄り駅で下車した後は、毎日ひたすら通っている慣れた道だ。妻は機械的に歩を進める。こうまで歩き慣れていれば、目を閉じていても辿り着けるように思う。

 見慣れた建物、見慣れた玄関、見慣れた廊下と階段とエレベーター、見慣れた看護士たちがきびきびと働く姿、見慣れた病室の名札と嗅ぎ慣れた病院特有の匂い。

 夫は先週から個室に移っていた。それは、来るべき時がいつ来てもいいように準備がなされたかのように感じさせる。そう遠くない未来に、夫は確実に。

「こんにちは。お義母さん、今日もありがとうございます」

 ドアをそっと開き、まず視界に飛び込んできた姑に向かって頭を下げ、妻は室内に入ってそっとドアを閉めた。夫に巣食う死病、その症状、その苦痛と絶命までのプロセスがこの白い部屋で展開される。夫はクライマックスを迎えるために、この一人だけが横たわることを許される部屋にベッドという舞台を移された。

「今日は早かったのね」

「ええ、定時で上がることができたので……あなた、来ましたよ」

「そうだったの。……今日は、何だか意識がはっきりしないみたいで」

 姑が溜息をついてベッドを見やる。夫は意識があるのかないのか、重く瞼を閉ざしていた。

「鎮痛剤が効いてるせいなんでしょうか」

「どうかしら。まあせめて、苦痛だけでも和らいでいてくれれば、と思うんだけど……」

 夫に用いられる鎮痛剤は、まずモルヒネシロップから始まり、そしてMSコンチンやアンペック坐薬を経て、今では塩酸モルヒネの静脈点滴になっていた。効果のほどは、用いられている本人にしか分からない。どれほどの苦痛が夫に闘いを挑んでいるのかも、やはり本人にしか分からない。

 妻は、洗濯済みのパジャマとタオルを姑に手渡してからパイプ椅子を引き寄せ、夫の傍らに腰をおろした。姑は妻の背後に立ち、夫婦を見守るような目線から、そっと語り始めた。

「最後まで、諦めたくない。そう思うのよ。奇跡が起きてくれればと、こんな風になってしまっても、それでも一抹の望みは捨てられずにいる。だけどね、最近はずっと、こうも思うの」

 静かな病室に、姑の声だけが響く。年齢によって微かに震えた声は細く、今にも壊れそうでいながら、けれど今日まで生き抜いてきた強さを持っている。

「私たち全員が覚悟を決めたら、そうしたらこの子は楽になれるんじゃないかって。私たちが死なせまいとする気持ちが、行動が、この子を病苦にさらし続けてるんじゃないかって。そう思うのよ」

「でも、お義母さん。そうやって引き止めようとしてくれる家族がいることが、夫の幸いになってるんじゃないでしょうか。……だって、誰にも生き延びることを望まれていないのは、あんまり悲しいでしょう」

「……そう、かしら」

「ええ。夫は確かに苦しんでいると思いますけど、でもお義母さんやお義姉さんの努力はけっして無駄じゃないでしょう。夫は心の中で感謝してるんじゃないかと思うんです」

「……そうだといいけれど。でも、やっぱり辛いわね」

「……そうですね」

 姑が重い溜息をつき、口許に手をやった。妻はじっと夫を見つめる。夫を蝕む癌は、表からは見えない。やつれた顔や手や繋がれた様々な点滴やチューブや生気のない様子が病気の深刻さ、酷さを伝えてきても、どれほど蝕まれているかは、百パーセントで生々しく分かるわけではない。夫は今、死にそうなほど苦しんでいるにもかかわらず。

「こんなこと、……娘に話したら怒られたけれど、でもね。もしこの子が力尽きたら、そうしたら、私は悲しみと安堵とどちらが強いか分からないのよ。この子が亡くなれば悲しいに決まっているけど、同時に、この子が苦しみから解放される、そう思うと」

「ええ。……分かります、お義母さん。お義母さんは特に、ずっと身近にいてこの人を守ってきてらしたんですから……」

 姑に向かって振り返り、言葉を返す。姑は張り詰めた日々を送ってきているなかで、嫁の言葉にふと弱い本心が滲みだし、そして涙ぐむ。すん、と鼻をすする音が静かな病室に響いた。

「ええ、……駄目ね、弱気になっちゃって」

「いえ、そんなこと。お義母さんは凄いと思います。ずっと見守り続けることが、どんなに大変なことか」

「……そうかしら、ありがとうね」

 姑が微かな笑みをもって返し、二人は見つめ合って頷きあう。妻は振り返ったついでに時計を見やる。そろそろ小姑が病院に着く時間だった。彼女は週四回パートに出ていた。

 時間を確かめてから、妻は再び夫に向き直った。

 彼は、そろそろ力尽きようとしている。昨日、担当医から、万が一の場合になった時にどこまで延命の努力をするか訊ねられた。妻と夫の家族、皆で一致した返答が出た。無理な延命は、本人の苦痛をいたずらに長引かせるものだと思うので、自然にお願いしますと告げた。

 それはつまり、夫の最期の時が近いと皆で認めることだった。

 そう遠くない未来に、夫は確実に死ぬだろう。

 妻は夫の肉が削がれたような頬を見ながら思う。自分のしてきたこと、あの食器への扱いが、十七年前に寄り添っていた彼を殺されたことへの復讐であるならば、一言、ただ一言を口にすることで全て終わる。『あなたが殺した少年には、当時彼と同い年の恋人がいたことを知ってる?』――そうすれば、夫は全てを悟り、絶望するだろう。

 もう残された時間は僅かだった。いつ尽きてもおかしくないほど僅かな時間。その間に言わなければ、自分は永遠に復讐を完成させる機会を失う。

 なのに、なぜ言えずにいるのか。

 言わなければ、憎むべき殺人犯は永遠に手の届かないところへと逃げてしまう。

 言わなければと自分を叱咤して、けれど今になって逡巡している。

 何よりも犯してはいけない罪を犯してしまったと呻いた夫。真夜中に、当時の瞬間を何度も繰り返し夢に見て、その度にうなされていた夫。夫に対しては、少なくとも結婚に踏み切るだけの好意があった。事実を知らされるまでの間に積み重ねられたそれが、今、瓦礫となって目の前に立ちふさがり、夫を憎みきろうとする自分の行く手をはばんでいる。

 妻はぼんやりと夫の呼吸を数えだした。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ……実際の呼吸より、ともすれば数えるタイミングの方が速くなってしまう。妻はじりじりと数え続ける。

「お母さん、お疲れさま」

 小姑がドアを開けて入って来たのは、二十六まで数えた時だった。

「あなたもお疲れさま。パートや家事もあるのに悪いわね」

「そんなこと。今日は泊まっていけるから、お母さんも少しは休んでね」

 きびきびと話しながら手にしている荷物を置いて、ベッドを覗き込んでくる。妻はそれを見上げて「お義姉さん、お疲れさまです」と声をかけた。

「ええ、あなたもね。そういえばあなたも会社があるのよねえ、大変かもしれないけど」

「いいえ、私は。却って、大したこともできないですみません」

「そんな、謝ることなんてないわよ。皆でできる限りのことはやってるじゃない?」

 妻は曖昧に「はあ」と受け流し、はにかむような表情をしながら、視線をベッドに戻した。夫は姉の登場にも無反応だった。深く眠っているのだろうか。

 微かに居心地の悪さを感じてきた妻は、椅子から立ち上がり、洗濯物をまとめて受け取ることにした。紙バッグを片手に、洗濯物を入れているカゴに向かう。今日はいつもより少ないように見えた。

 そして洗濯物を紙バッグに詰めながら、今日は残業があったことにして遅く来た方がよかったかもしれないと少し後悔した。この場所の雰囲気には馴染めなかった。夫の家族のための場所のように感じられていた。

 

「じゃあ、あなた。また明日来ますね」

 いつもの時間になるまで何とかやり過ごした妻は、反応の乏しくなった夫の耳許にそっと話しかけ、屈めていた背を伸ばして紙バッグを手にした。妻はもともと結婚生活のなかで夫に荒い態度をみせたことはなかったと自負しているが、癌がどうしようもなく進行していると実感するにしたがって、少しずつ自分の夫への声がまるで心から愛しているかのように優しく響いてくるのを自覚していた。それは食器を別にしていた頃には絶対出せなかった声だった。かといって、あの真夜中の告白以来、夫を愛しているとはとても言えなかった。愛情なくして、なぜ、何によってこんな声が出るのだろうと妻は疑問に思う。それまでの悪意的な食器の扱いに対する罪悪感なのか、それとも消えてゆこうとする命への普遍的な情味なのか、この場の雰囲気がそれを強いるのか。

「お義母さん、今日の洗濯物はこれだけでよろしいんですか」

「ああ、ちょっと待ってね。確かタオルがあと二枚あったはず……」

「あ、その花瓶のあたりに置いてあったものなら、もうバッグにしまいましたけど」

「そう、それ。ありがとうね」

「いえ、……じゃあ、すみませんけどお義母さん、お義姉さん、御無理なさらないで、よろしくお願いします」

「ええ。あなたも、帰り道と体には気をつけて」

 姑の声は囁くように優しい。妻は頭を下げながら、なぜこんな優しい声を出す人の息子が十四歳で殺人を犯してしまったのかと思いながらドアを抜けて廊下に出る。そして、生命力を抑圧するような静けさの廊下を歩きながら、もしかしたら息子の殺人による苦悶の果てから優しい声が出るようになったのだろうかと思う。外界へ向かって歩く妻の心は、速やかに病室の重さから解き放たれてゆく。それを薄情だと詰らせるつもりはない。

 外界は新鮮な夜風が気持ちよかった。終わりを待つ世界から、生きる世界に戻ってきたという実感が快かった。

 深く呼吸しながら慣れた道を歩き、駅に向かい、いつもと同じ時間の電車に乗って空席をさがす。なるべく隅の席がいい。幸い、車両の隅に空席を見つけ、妻は深く沈みこむように座る。その瞬間、気が抜けたように顔の筋肉が弛緩した。

 やがて下車駅に着き、電車を降りると、妻は夫の存在が欠けたマンションへと急いだ。そこは今、彼女一人の世界だ。洗濯物を洗濯機に任せ、ゆっくりと風呂を使い、そしてキッチンで夫の食器を洗うという儀式を済ませた後、あらゆるしがらみから自由になったかのような顔でウイスキーを舐め、タバコの煙を味わって眺めよう。それから明日の仕事に備えて眠ろう。そういえば今まで貰い物のウイスキーで済ませてきたけれど、もう残り少なくなってきている。次のボトルは自分で選んでみようか。どういうものがおいしいのだろう。妻はそうやってとりとめなく思い巡らせる。脳裡にちらつく夫の病み疲れた寝顔は、どこか別次元の映像のように実感を失ってゆく。

 ただ、それでも頭の中では繰り返される。このままでは復讐を完成できない、言わなければ、夫の家族に気付かれないタイミングを見つけて、そして夫の耳許に囁かなければ、そうしなければ。


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