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その夜、夫の病室では妻だけが付き添っていた。
深夜二時になろうとする頃、妻は欠伸を繰り返し洩らし、眠気覚ましにコーヒーを淹れようと立ち上がった。部屋の片隅に行って自分用のマグカップを取り、インスタントコーヒーの粉を入れ、ポットの湯をそそいで軽くカップを揺らして粉を溶かす。そしてその場で一口飲んだ。ポットの湯はややぬるく、猫舌気味の妻にでもするりと飲めた。
それからコーヒーの湯気を揺らしながら窓際に歩み寄り、窓に凭れかかるようにして立ち、その向こうの夜を眺める。面白いものなど何もなかった。ただ、病室という現実から目をそむけることはできた。
夫は今にも最期の時を迎えそうな状態を、ここ数日にわたって続けていた。
妻は課長に事情を話し、会社から休みをとらせてもらって、夫の家族と共に泊まり込みに参加していた。今夜に限って妻一人だったのは、姑の体力が限界にきたからだった。妻は何かあったらすぐに知らせると約束して彼女を小姑の夫の車で送り帰らせた。
夫と二人きりになるのは彼の入院以来はじめてのことで、妻はどうすごしていいものか戸惑いながらパイプ椅子に座り、夫の寝顔を眺めた。しかし命が尽きようとする者の顔を見ているのは怖かった。自分がかつて誰よりも大切に思っていた人間を殺した者が、今、自分の目の前で、自分に看病されながら死のうとしているのは、どういった天の采配なのだろうと思った。
コーヒーはすぐに飲み終わってしまった。妻はカップを洗おうとして室内にとりつけられた小さな流しに行き、蛇口をひねって水を出した。
背後から声が聞こえてきたのは、その時だった。声は彼女の名前を呼んでいた。
妻はぎくりと身をすくませ、恐ろしいものを見るかのように声のする方へ顔を向けた。
それは闘病によって涸れている、夫の声。数カ月前まで聞いていた健康な声とはあまりにもかけ離れた声で、地の底から這い上がってくるかのような、あるいは天から忌わしい何かが降ってくるかのような声だった。
「あなた……? どうかなさったんですか」
言葉が、緊張から敬語に化ける。夫は、薄く開いた眼差しを真っ直ぐこちらへ向けていた。それは病室の明かりに暗く翳り、妻をぞっとさせた。意識ははっきりしているようだった。それだけでも、今となっては珍しいことだった。
「……こっちへ」
涸れた声が促す。妻はカップをその場に置き、そろそろと近づいていった。夫はそれを辛抱強く待っていた。
「あなた?」
「君に、話しておきたかった」
言葉が聞き取りにくい。妻はパイプ椅子に腰をおろし、半身を屈めて、耳を夫の口許に寄せる。熱い息ごと聞こえてくる声は、近すぎてなおさら恐ろしく、気持ち悪かった。
「いつか、君に話した夢のこと、あの罪を犯した瞬間」
切れ切れに、声は語りだした。妻は目を見開いて虚空を凝視して、聞こえてくる声に耳を奪われる。
「あの時から、ずっと……おそるおそる、生きてきた気がする」
妻は相槌をうつこともせず聞いていた。下手に自分の声を割り込ませれば、この最期の語りを聞き損なうように思えてもいた。自分がそれを聞きたいのかどうかはこの際関係なかった。語られているもの、それを聞くのが今の彼女の立場であり、物事の流れだった。
「けれど、そんなことは、もうどうでもいい……俺は、お前の人生を、こうして台無しにしてしまった」
声がやや苦しみを帯びてくる。妻は思わず息を詰めている。
「でもこれからは、お前が、俺の存在なしに……本来生きるはずだった、人生を、生きてほしい」
それは無理だと、妻は咄嗟に思った。そう叫びだしそうな衝動を、かろうじて抑えた。
夫の存在、夫の罪によって、寄り添っていた大切な人間を失っている以上、本来生きるはすだった人生、あるいは本来生きようとしていた人生を生きることは、既に不可能だった。夫は、それを知らないのか。その可能性に、気付いていないというのか。まさか、知っていて敢えてそんな酔狂なことを言っているとでも。まさか。夫は何も知らないのだ。
知らずに言ってのけるということは、どれだけおめでたいことなのか。
妻は復讐を完成させる言葉を頭の中で繰り返す。呪文のようにぐるぐると唱え、何度でも反芻する。今こそが絶好の機会だ、この一言を今こそ告げてやろうかと思う。
「……あなた」
けれどすんでのところで復讐の言葉は呑み込まれ、彼女は手を伸ばし、夫の痩せた手に触れた。夫の目線が、その手に向かい、それから妻の顔に向かう。
「あなた、あなたのいなかった人生なんて、ありえないから」
そう。たとえ、あなたさえいなければと呪っても。
「眠って下さい。まだ、夜は深いですから」
そう。眠っていてほしい。起きていられると、どうしていいか分からなくなるから。
「……すまない」
夫は最後にそう呟いて、再び目を閉じた。
それに付き添う妻の耳の中では、涸れた声が死霊のように凶々しく反響していた。
夫の容態が急変したのは、翌日の夕方だった。
妻は自宅で洗濯物をたたんでいたところに電話を受け取った。すぐに家を出て、駅からタクシーに乗って病院に駆けつけた。そこには、夫の両親と姉、それと何度か見舞いに来ていた親戚の者が二人集まって、医師や看護師に混ざってベッドの周りを固めていた。
妻は小声で短く挨拶をして、すぐにその中に加わった。ちょうど、医師が夫の呼吸を支えていた器具を取り外すところだった。
「これから、ご自分の力で呼吸をして頂きます」
医師が厳粛に告げる。皆の視線が、夫の口許や胸許や心電図に集中する。夫の意識はない。
妻の右隣から、抑えきれない嗚咽が聞こえてきた。それは姑のものだった。
妻はそっと視線を巡らせた。妻と医師と看護師を除く全ての者が、そこでは涙を惜しみなくこぼし、目をぎりぎりまで見開いて夫を見つめていた。夫の家族たちは、今にも崩れ落ちそうな様子で床を踏みしめ、そこに立っていた。
彼が殺人を犯してからの十七年間、その家族や親戚の者たちには、どれだけの辛さ、苦しみ、不安、煩悶があったのだろう。そしてそれを家族として乗り越えることで、どれだけ互いの絆が強固なものとなっていたのか。今、それをさせた存在が最期を迎えている。今までの十七年間に、終止符が打たれようとしている。
妻は夫に視線を戻し、まばたきを極力少なく抑えながら、じっと見つめた。この殺人犯の最期を、自分は見届けなければならないと思った。結局、どうしてか最期まで復讐を完成させられなかった、この人間の死に顔を、せめて見なければ。
彼の呼吸は細く弱く、数分にわたって続いた。そしてふつりと途切れ、首がかくりと力を失った。
それが彼の臨終だった。死に顔は寝顔のようだった。想像していたよりも遥かに、その最期はあっけなかった。終わった。そう妻が思った瞬間、姑と小姑が声をあげて泣き崩れた。
彼女には何も出せなかった。妻としての涙も、被害者として見届けたと頷くための表情も。
それからは、全てが慌ただしく駆け抜けてゆくようだった。
互助会へ連絡をして、担当の人材と一緒に棺桶などが運ばれ、告別式を行なわない密葬という形式で葬儀を執り行なった。集まった人間は全員で十人程度だった。
そして荼毘に伏したその日のうちに僧侶を呼んで経を唱え供養してもらい、納骨を済ませた。それは異例のような気がしたが、しかし妻には葬儀に関して詳しい知識があるわけではなく、こうしたケースもあるのかと思いながら列席していた。姑は最後まで涙を流していて、葬儀が終わる前に倒れるのではないかと周りの人間に危惧させた。
全てが終わり、使った喪服をクリーニングに出そうとして簡単にたたんでいる時、妻はようやくほっと息をついた。三年半にわたる結婚生活は、あの葛藤は、これで一応終結したのだと思った。




