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流し  作者: 城間遙子
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 今から十七年前、当時十四歳の少年が、同人誌専門の印刷会社に勤めていた十七歳の少年を折りたたみ式のナイフで刺殺した。二人に面識はなく、通りすがりの殺人だった。犯行の動機は「誰かを殺してみたかった」ということと、十七歳の少年が仕事帰りで汗とインクの匂いを漂わせていたこと、十四歳の少年にとってその匂いが不快なものであったということだった。

 それは八月十七日の夕方だった。殺される少年は、その日の夕方になるまでの十日間、職場に泊まりこんで仕事をしていた。お盆のあたりに大きな同人誌即売会があるため、印刷や製本や出来あがった本の会場搬入で、食事をする暇もなかなか取れないほど忙殺されていた。それは年に二回ある修羅場のうちのひとつだった。

 ようやく仕事から上がることのできた少年は、とにかく一秒でも早く家に帰って眠りたい一心で帰路を急いでいた。他のことは何も考えておらず、周りも見えていなかった。人を、とにかく誰かを殺そうとしている少年とすれ違ったことなど、全く知りようがなかった。そもそも、人の心が読めるのでもなければ、すれ違う誰かの無差別な殺意に気付くことは普通あり得ない。少年にとって今急いで歩いている道は、毎日通い慣れたただの道だった。すれ違う人というものも含めて。

 殺す少年は数日前から制服のポケットに折りたたみ式のナイフをしのばせていた。少年は本来、老人を殺すつもりでいたという。子供や若い人には未来があるからいけない。壮年や熟年の人には、まだ子供の学費や住宅のローンがあって働かざるをえないだろうからやめておこう。消去法で残るのは老人だ。事件後の少年の供述から言葉を借りれば、「社会に使われ終わった」老人。

 殺す少年は、実行の日取りや段取りを決めてはいなかった。対象にする老人も決まっておらず、ただ漠然としたイメージだけがあった。それを空想しながら学校帰りの道を歩いていた。そして、そこで殺される少年とすれ違った。

 殺す少年はすれ違いざまに匂ってきた殺される少年の体臭に眉をひそめた。それはきつい仕事によって大量に流されたのだろう汗の匂いと、少年には嗅ぎ慣れないインクの匂いだった。殺される少年は帰宅したらシャワーで汗を流そうと思っていたかもしれない。

 殺す少年は立ち止まって振り返り、殺される少年の後ろ姿を見つめた。まだ鼻に残っている匂いは、殺す少年にとって不快な匂いだった。殺す少年は制服のポケットに手を差し入れ、中にあるナイフを握りしめてみた。ナイフの存在感は何かをそそのかすように生々しかった。

 殺される少年の後ろ姿が遠ざかってゆく。殺す少年は、決めるなら今だと思った。ナイフは決断を求めているのだと思った。

 まだ生活への理想と生活の現実の距離や温度差の折り合いをつけられずにいる少年の、幼稚で短絡的な嫌悪感は、あっさりと予定の変更を受け入れた。少年は足を踏み出す。ナイフをもう一度強く握りしめ、ポケットから出してカチリと開く。最初の二歩、三歩は踏みしめるように、そして後は全力で走って、殺される少年の背中にぶつかっていった。

 ナイフが殺される少年の背中に食い込んでゆく。殺される少年が振り返ろうとすると、殺す少年に体重が傾けられた。そしてさらにナイフは食い込む。

 殺す少年は、ナイフの刃を刺したまま捩った。固くて思うようにはできない。中で骨にぶつかり、その骨をすり抜け、ギチリ、と肉が刃を抱き込みながら裂かれてゆく音が、手に伝わる感触と響きあうように聞こえた。

 殺す少年はナイフを引き抜き、振り返ろうとしている少年の肩を掴んで向かい合わせ、正面から更なる一撃を加えた。ナイフは肋骨の間を通って、少年の胸にざくりとめり込んだ。殺す少年は力を籠めてより深く刺し込もうとしながら、殺される少年の顔を見上げてみた。見開かれた目。驚愕と混迷。本能的な恐怖。事件が起こったことに気付く通行人の悲鳴が、そこでようやく上がってきた。最初に叫んだのは、彼等の真横を歩いていた中年の婦人だった。

 殺された少年は胸にナイフを突き立てられたまま、膝から崩れ落ちていった。殺した少年はナイフの柄を握ったまま、殺された少年の体が傾くのに任せてその肩に顔を乗せた。熱い肩、不快なあの匂い、そして生臭い血の匂い。殺された少年が地面に膝をついた時、ナイフの柄から手を離して両足を踏みしめ、倒れてゆく少年と自分の両手を見おろした。彼の背中から血が溢れだし、シャツは真っ赤に染まっていった。殺した少年の手はがくがくと震えていた。着ていた制服は返り血でまだらに汚れていた。

 騒ぎは、水面に石を投じて波紋が広がるように伝わっていった。誰かが「警察! 警察へ!」と、うわずった声で繰り返し叫んだ。殺した少年は、その場に駆け付けた警察官によって捕まえられた。逃げようとはしなかった。

 殺された少年は、救急車が到着した時点で死亡が確認された。

 

 妻は食器が触れあう音で我にかえった。

 夫の食器は全て洗い終え、ふきんで拭われて、あとは食器棚に戻すのみとなっていた。

 少し思い出しすぎた。妻は過去の事件が胸を煮えたたせるのを感じながら、忙しなく息をついた。左手を側頭部に差し込んで指の腹で頭皮を掻きむしり、うつむいて目を閉じ、開き、また固く閉じてから開いた。それから食器を手早く片付け、食器棚の一番下の抽き出しからウイスキーのボトルを出し、上の抽き出しからはグラスを出して、テーブルの上で注いだ。ふわりと酒の香りが立ちのぼる。

 椅子を引き寄せて腰をおろし、グラスに口をつけて一口思いきり呑みこみ、喉がひりつくのをやり過ごしながらタバコをくわえる。

 それでも胸の騒ぎは容易に止もうとはしなかった。妻はいつもより早いペースでグラスを傾け、忙しなくタバコを吸った。そしてふと手許に目をやると、タバコの灰はフィルターぎりぎりまで進んで崩れかけていた。妻は立ち上がり、タバコを濡れた流し台に押しつけ、執拗に揉み消して三角コーナーに捨て、灰を水で流した。

 灰が下水に向かって流れていった後も、水の流れをぼんやりと見つめ続ける。思い出しすぎたことを後悔していた。これでは、今夜はうまく寝つくことができないだろう。自分は考え続けてしまうだろう。

 妻はテーブルに目をやり、グラスを取って残りのウイスキーを一気に呑みほし、テーブルに音をたてて置き、それから再び食器棚の前に立った。

 片付けたばかりの食器が取り出され、流し台に積み上げられ、そしてまた洗われる。洗剤をたっぷりスポンジに染みこませ、たっぷりと泡立て、丁寧に磨く。すすぎは時間をかけてじっくりと行なう。

 殺された少年は、その最期の瞬間に何を思ったのだろうと、夫の茶碗を洗いながら妻は思う。

 何を思ったのだろう。少年は――当時、自分の恋人だった少年は。


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