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夫の体が、癌によって蝕まれてゆく。
妻はベッド脇のパイプ椅子に座り、溶けたリンゴのシャーベットをスプーンに少しすくいとって夫の口許に差し出し、僅かに開かれた唇にそっと含ませることを続けていた。
やがて夫はもういいと言うように片手を上げて遠ざけるような仕種をしてみせ、妻の方に向けていた顔を真っ直ぐ真上に戻した。
妻は立ち上がり、一時間かけて四分の一ほど食べさせたシャーベットの残りを、小さなくくりつけの洗面台の水道に流し捨て、紙カップをすすいで小さく折りたたんでゴミ袋に捨てた。スプーンもすすいでベッド脇の抽き出しに片付けていると、背後から姑が声をかけてきた。
「時間の方は大丈夫?」
妻は時計を見やりながら答える。
「ええ、そろそろ……いつもすみません、お義母さんにはお世話になりっぱなしで」
「いいのよ、あなたは働かないといけないんだし。私こそ、できるのはこれぐらいだから……」
「そんな。お義母さんのお蔭でとても助かってますのに」
声をひそめて行なわれる社交辞令は互いの立場を垣間見させる。
妻は入院費用のために仕事を続ける必要があった。姑は夫が癌を病んでいると分かった時から、進んで泊まり込みの看護を引き受けていた。この泊まり込みは主に夫の母と姉が担っている。妻がしているのは毎日の仕事帰りに二時間ほど看ることと、帰りに受け取る衣類やタオルなどの洗濯、そして週末の泊まり込みだけだった。妻としての立場から見れば、今とっている態度はあまりにも非力あるいは薄情なものなのではないかと妻自身思ってはいるものの、しかしこれが限界だった。
妻は横たわる夫の姿を見おろした。抗癌剤のために髪の抜け落ちた頭、肉を剥ぎ落としたような頬、気力を根こそぎ奪われたような目許。三カ月前に入院することが決まってから、症状の進行はひどく速やかだった。数日前に個室へ移ってから、衰えはなおさら顕著になってきたような気がする。三十を越えたばかりの若い体は、止めようのない勢いで侵食されてゆく。
妻はやがて目をそらし、立ち上がって手荷物と洗濯物をまとめだす。もう帰らなければ明日の仕事に差しつかえる。帰ったらすぐに洗濯機を使い、その間に入浴を済ませ、風呂上がりに洗濯物を干し、ベランダに出しておかなければならない。
「じゃあ、あなた。私は帰りますね。お義母さん、後はよろしくお願い致します……」
「ええ、あなたもお疲れさま。暗いから気をつけて帰ってね」
妻は「はい」と頷いて丁寧にお辞儀をし、ドアをそっと開いて廊下に出る。病室の一歩外側からドアを閉める際に、もう一度頭を下げる。姑は人の好さそうな様子でお辞儀を返してくれる。この三カ月の間に声が涸れてしまった夫からの返事はない。夫の体は、ここからだとベッドに埋もれてしまっていて、点滴のチューブとその先のパックだけが伸び上がって見えている。
妻は踵を返してそこから遠ざかり、面会時間を過ぎて、しんと静まりかえった廊下を独り歩く。ある三人部屋の前を通る時、中から咳き込む音が聞こえた。それを背にしてエレベーターに向かう。洗濯物を入れた紙バッグの取っ手が手のひらに食い込んでくる。その洗濯物は夫が生きて生命活動を行なっている証しだ。生きているからこそ洗濯物が出る。これを持ち帰る必要がなくなった時、それが夫の死だと妻は思う。
病院から出ると、一気に健康的なところへと連れ出される。星は夜空に輝いている。真っ白な病室の世界とはうって変わって、群青の外界をタクシーが走り抜けてゆく。通り道にある居酒屋からは、魚を焼く煙と匂いが洩れてきて嗅覚をむっと刺激する。居酒屋のはす向かいにあるスナックからは、どもりがちのカラオケが聞こえてくる。この二軒の中では、どれだけの人が健やかに酒を呑んでいるのだろうと思いながら通りすぎる。
妻は夜の道を駅へと急ぐ。早く帰りたかった。毎晩、夫の病室から解放されたその瞬間から、その気持ちは吹き出してくる。やるべき事を終えた後に少しのウイスキーを舐め、数本のタバコを吸うことが今のささやかな楽しみとなっている。この寝る前のひとときには、夫のことは強いて考えないようにしている。
帰りの電車は疲れた人たちがパラパラと席に沈んでいた。妻は車両の隅に空席をみつけて腰をおろし、紙バッグを自分の傍らに置いて息をつく。電車の中は不自然に明るくて静かだ。レールの繋ぎ目を電車が踏みつける音が定期的に響き、子守唄のように聞こえてくる。瞼を閉じ、目許を人さし指と親指で押さえて揉んでみると、蓄積された疲労が絞り出されるような感じを覚えた。
いくつかの駅を過ぎ、誰も口を開かない車内に妻の降りるべき駅を読み上げるアナウンスが響いて、妻は紙バッグと仕事用のバッグを持ち直して席を立つ用意をする。ある住宅街の最寄り駅になっているその駅では、比較的多くの人が降りる。沈黙のまま人は流れ、各々の帰るべき住まいへと歩きだす。妻はエスカレーターの左側に立ち、右側を上ってゆく人を何人か見送った。自分がそのなかに加わる気は起きなかった。運んでくれるものなら運んでいってくれという気持ちで手すりに手をかけて体重を傾けていた。
駅を出ると、あとは点々と続く街灯と家々の窓から洩れる明かりによって薄暗く浮かびあがる道が続いている。しばらく真っ直ぐ歩き、右へ二度曲がり、道なりに歩いて左手側に建っているマンションへと入る。共同玄関の明かりに羽虫が寄りついてカシカシと音をたてていた。
エレベーターに乗り込み、六階のボタンを押して中の壁に凭れ、斜め前を見上げる。このマンションのエレベーターは全てにおいてゆっくりと動く。そのため、毎日、使う度にじれったい思いをさせられる。それでも階段よりは疲れないから毎日使う。
六階に着いてエレベーターを降りると、少し歩いた先の角部屋が夫妻の借りている部屋だった。子供が生まれた時のことを考えて3DKの部屋を借りたけれど、結婚して三年と半年が経とうとしている今も子宝には恵まれずにいる。夫が病んだ今となっては、この部屋に子供が住まうことにはなりそうにない。
鍵をバッグから出し、ドアを開ける。玄関とリビングへ続く廊下は自動的に明かりがともる。黄色がかった柔らかい明かりが消えないうちにリビングへ向かい、そこの明かりをつけてソファに荷物を置き、その足でキッチンの明かりもつけに行く。そして流し台のところでタバコを一本吸ってからリビングに戻って洗濯物の紙バッグを取り、寝室のクローゼットからタオルと下着とパジャマを出してバスルームへ向かい、バスルーム脇に置かれた洗濯機に洗濯物と洗剤を入れてスイッチを押し、服を脱いでシャワーを浴びる。それが済んだら洗い終わったばかりの洗濯物を干すためにベランダのある部屋へ行き、ひとつひとつ皺を伸ばしながら干し、サッシを開けてベランダの物干竿にかけておく。そしてまたキッチンに戻り、妻は食器棚の前に立つ。
そこには様々な食器が積み重ねられ、陳列されていた。妻は茶碗や大皿など、それぞれの一番上に重ねられている食器を全て取り出し、流し台に積んで丁寧に洗った。それは夫の食器だった。洗い、丹念にすすいで清潔なふきんで拭われたそれらは、またそれぞれの一番上に積み重ねられる。夫が入院してからはこの台所で料理をしたことが一度もないため、夫の食器は常に一番上にあった。使われていない食器を洗うことを含むこの一連の動作は、ここ三カ月の間、夫の病室に泊まり込む日以外は何一つ違えることなく繰り返されていた。
単調な動作。夫が他界して終止符が打たれるその日まで、繰り返される日々。妻は食器を洗う段になると必ず過去の事件を思い出した。正確には、過去の事件から今に至るまでの要所要所を、物語のあらすじのように。




