Ending
* * *
玄関でインターホンを鳴らす音が聞こえ、彼女は立ち上がった。
あれから二週間がすぎようとしていた。彼女は二人で暮らしたマンションを引き払い、実家へ帰ることになり、今はそのための準備に忙殺されていた。職場にも復帰していたから、忙しさはなおさらだった。
仕事は彼女の心をフラットな状態にしてくれて、今はありがたかった。彼女は忙しい中でもなるべく残業するように努めていた。そしてここに帰宅すると、コーヒーを淹れて飲みながらタバコを吸い、それから帰宅途中に買った弁当を食べて荷造りにとりかかった。今、部屋には荷物を詰め終えて封をした段ボール、まだたたまれた状態の段ボール、広げられて荷物を詰め込んでいる途中の段ボールが、足の踏み場を僅かに残しながら散在していた。
「……まあ、お義母さん」
玄関ドアを開けて、彼女は大仰に声をあげた。そこには、いささか痩せて小さくなったような姑が立っていた。抜き打ちの来訪だった。
「大変な時にごめんなさいね。何だかあなたの顔が見たくなって……」
「いえ、そんな。上がって下さい、散らかっていて申し訳ないんですけれど」
「そう、ありがとうね」
姑はそっと頭を下げて足を踏み入れた。彼女は姑をリビングへ案内しながら、なぜ突然訪れてきたのか疑問に思っていた。
姑はとりとめなく近況や息子の思い出を話した。息子の話題には涙が欠かせなかった。妻だった彼女は姑の話ひとつひとつに相槌をうちながら、この話はいつまで続くのだろうと思い、姑の背後に掛かっている時計をちらりと見た。
「本当に、愚痴ばかりになってしまって。ごめんなさいね」
姑が、ほうと息をつく。彼女は手を振って「いいえ、そんな」と定石通りに反応してみせた。
「せめて、子供でも残していてくれていたなら。そう思うんだけど……」
「……すみません」
「あら、違うのよ。あなたを責めるつもりじゃないの、気にしないで。子供なんて授かりものだもの、しょうがなかったのよ」
「でも、申し訳なくて」
それは妻という立場での本心だった。二人の間にセックスがあったのは、最初の半年だけだったのだ。普通に行なわれていたのは三カ月くらいまで、そして真夜中の夫の告白以降は三カ月の間に二回あったのみで、その後は、全く触れ合うことがなくなっていた。妻にとってその二回のセックスは苦行以外のなにものでもなかった。あの不快感、異物感を思い出す度に憎しみがこみあげ、胸が悪くなる。そしてセックスがなくなったことを当然のことと受けとめていた。夫が過去の罪を、その夢を告白した時から、触れ合えない夫婦になったことを。
けれどそれを知らない姑は、子供を授かれなかった不運を慎ましく嘆いていた。妻だった彼女は、それを痛ましく思って静かにうなだれながら、その反面、授かれなかった幸運に感謝していた。最も憎むべき殺人者の精子が自分の卵子に突入し、結ばれて、ひとつの生命として自分の胎内に宿り、そして遺伝子を伝える存在として、ひとつの個を持った人間として生まれてくるだなんていうことは、けっして許せることではなかった。
「でも、ねえ、あなた」
姑が、話題を切り替えるように語調を改めた。
「あなたには、お礼を言わないといけないのよ」
「お礼だなんて、そんな。看病さえ満足にできなかったんですから」
「違うの、そんな些細なことじゃないのよ」
反射的に謙遜する彼女に向かって、姑は首を振りながら、こころもち身を乗り出した。
「息子を、人として死なせてくれて、ありがとう」
母だった姑ははっきりとそう言って、妻だった彼女の手を取り、力を籠めて握った。
姑が帰っていった後、彼女はぼんやりとした気持ちで荷造りを再開した。
なるべく、捨てられそうな物はどんどん捨てていくつもりだった。地域指定のゴミ袋は大小とり揃えて何セットかまとめ買いしてある。古い衣料、雑誌、メモ、さまざまな日用品。それらを分別しては詰めてゆく。
それが一段落ついた時、彼女は大きいサイズの不燃ゴミの袋を持って、キッチンに向かった。
迷わず食器棚の前に立ち、抽き出しを開ける。
そして一番上に重ねられている食器を次々とゴミ袋に放り込んだ。食器は鋭い音をたてて触れあい、中で欠けたりもした。彼女はそんなことはお構いなしに作業をこなした。
これは、明日の不燃ゴミ収集日に出してしまうつもりだった。最後にもう一度流し台に積み、丁寧に洗うなどということはしなかった。彼女は徹底して、それらを不要なゴミとして扱った。
それが終わると、彼女は室内を見回した。夕暮れの時を迎えて、ずいぶん暗くなってきていることにようやく気付いた。いつの間にか作業に熱中していたらしかった。
食事をどうしようか、買いに出るのも食べに行くのも面倒くさい、そう思案しながら、彼女は冷蔵庫や乾物をまとめて入れていた棚を覗いた。夫の入院以来ずっと料理せずにいただけあって、調味料以外に使えそうな物はほとんどなかった。ただ、米と梅干しと緑茶の茶葉がいくらか残っていた。
彼女は米を一合だけ炊くことにして、シャツの袖をまくりあげた。お茶漬けでもかきこもう、そう思いながら米びつを開いた。
飯が炊けるまでの間は、休憩ということにしてリビングで缶コーヒーを飲みながらタバコを吸ったりしてすごした。何となく手持ち無沙汰な気持ちで部屋をうろつき、炊きあがりを告げるブザーの音を待った。
彼女はリビングからキッチンに戻り、先に茶碗を出しておくことにした。食器棚から自分の茶碗を出し、そして軽くゆすいでおこうとして、けれど食器洗い用のスポンジを手に取り、洗剤をたっぷり含ませて何度か握って泡立て、泡でくるみ込むようにして洗った。
泡をまとった茶碗を数秒間見つめ、そして蛇口をひねって水を流し、さっとくぐらせる程度のすすぎを行なう。
それは夫の食器に対して三年間続けていた洗い方だった。
やがて飯が炊きあがり、彼女はしゃもじを取ってかき混ぜ、炊きたての湯気がわっとたち昇る飯を茶碗によそい、梅干しを乗せ、緑茶を淹れて茶碗にそそいだ。
少し匂いを嗅いでみて、口をつけ、一口かきこんでみる。
洗剤らしい味は感じられなかった。妻はその事実に安堵と物足りなさを覚え、けれど後味の悪さにギクリと動きを止めた。
後味にはまぎれない違和感があった。口腔内に、薄く気持ち悪い皮膜ができるような感覚。それは間違いなく洗剤臭さだった。
妻は一口食べただけの茶漬けを凝然と見おろし、息を呑み、それから弾かれたように流し台へ行って三角コーナーに捨てた。
――罪を告白してから急に洗剤臭くなった食事を、夫は、あの人はどう思って毎日残さず食べていたのか。
彼女は半分残っていた缶コーヒーを口直しに飲みながら、考えを張り巡らせる。キッチンを歩きまわり、彼の食器が投げ入れられたゴミ袋を見おろす。そう、彼の食器は全てこのゴミ袋の中だ。この流し台で彼の食器を洗うことは、金輪際ありえない。
茶碗を洗いなおして、もう一度茶漬けの用意をしよう。そう思い立ち、流し台の前に立つ。そして水を勢いよく流しながら、延々と茶碗をすすぎ続けるうち、彼女は今日の姑の言葉を思い出した。
――息子を、人として死なせてくれて、ありがとう。
過去に人を殺したような息子を、あたりまえの人として死なせてくれて、ありがとう。
彼女はふと思い当たり、そして、愕然とする。
「私は、彼の望むように死なせてやったということなのか?」