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追想写真  作者: 那智
二枚目
9/10

08


「お前は、もう、行きなさい」


そう言って父は手を離した。しっかりと繋いでいた筈なのにその大きな手は俺の背中を押す。

せめて「もう、行くから」と言ってくれたら、その背中だって追う事が出来たのに、ずるい人だ。

押された背中に自分の意思とは真逆に強制的に踏み出されてた足、もう一歩を渋々だして、何度も振り返る。

その度に父が大きく手を振るものだから、夢の淵までその姿を目に焼き付けようとした。


目蓋は昨日の涙を吸い込み、持ち上げるのに一手間だった。

枕に頭を押し付け、天を仰ぐ。格子状の梁を数えて壁へと移った仰向けの姿勢も同じく引き連れて寝返りをうつと障子窓では防げない程に明るい光がぶつかっていた。

部屋はまだ、埃っぽいが、差し込まれた光に細かな埃が照らされてキラキラと光を放つ。案外綺麗なものだ。

一夜あけて、見慣れない反対の世界に、まだ心の整理は付かないが、幾分かつっかえがとれた気はする。

風船の様に膨らんだ胸の中と、今も水分を孕んだままの瞼。随分な醜態と足らずの言葉で緑達には迷惑をかけてしまった。

けれど、彼らには何かわかっている様で、何も言わず、用意してくれた布団に沈めば、思った以上に温かかった。

何度か目を瞬かせると、水分を含んだ瞼が重く瞳を閉じ様とする。このまま眠ってしまおうか...身体のダルさに布団の中に潜り込むが、一度覚めた目を夢の淵に滑らせるのは存外難しい。もしかすると他人の家という慣れない空間に、今更緊張してきたのかもしれない。

深く瞼を閉じる程に、頭の中は回転していく。こういう時は勢いが大切だ。「せーの」掛け声を自身に掛け、一気に布団を押し上げると、枕元に丁寧に畳まれた洋服が置かれていた。

八畳程からなる部屋の真ん中に一つ、布団だけ。とても寂しい部屋だ。


置かれた服に袖を通す。やや大きいものの、ズボンの紐を引けば十分に着られる。ほのかに石鹸の香りがしてわざわざ用意してくれたのだろうか。

そっと外を伺うように開いた障子、板間の廊下はひんやりと風が行き来していて、ガラス戸の向こうの中庭では日をたっぷりと浴び草花が青々としていた。

廊下に顔だけを出していると、中庭を対角線上に中庭を越えた廊下から緑が歩いてくるのが見え、その足は角を曲がり、こちらにやって来た。

今日は昨日とは違い、青色の縦縞が入ったシャツを着ていた。その上に割烹着なんとも不釣り合いな格好だ。


「あぁ潤葉、起きたんだね。おはよう。今、起こしに行こうと思ってね」

「…おはよう」

「お風呂沸かしたから入っておいで。服は…少し大きかったかな」


爪先から頭の天辺まで見回して、笑われた。それを気にしている暇もなく、部屋から引きずり出される。引っ込んでしまう前に、と、思われたのかも知れない。

与えられ部屋は、母屋から続く廊下の一番手前にあった。その隣が緑の部屋へと続き、一つ空き部屋を挟んで、父が敬愛してやまなかった師匠の部屋だと言っていた。


緑に言われるままにその後ろを付いて歩く。ヒタヒタと足の裏によく冷えた板張りが吸い付いてくる。春先でここまで冷えていれば冬など裸足で歩くのは難しいかもしれないな。


場所は丁度、仏間の裏手側に位置する風呂場、色の深い一枚板の戸を横に押しやれば、緑の身体を越えて尚、篭った熱気が頬を撫でた。


「タオルは籠に入ってるの自由に使って、石鹸も棚に並んでるからね」

「うん」


こんな事なら着替えなければよかった。丁寧に洗濯されたシャツを畳まれていた時と同様に折り畳みタオルの隣に並べた。磨り硝子の向こう側は熱気に当てられて更に視界を閉ざす。

居間もそうだったが、風呂場も案の定大きい。タイルの引かれた洗い場には2つ蛇口と鏡が並び、浴槽も泳げるまでには行かないが淵に手を掛けてばた足しても飛沫はさほど迷惑にならないだろう。

浴槽一杯に溜まったお湯を掬って頭の上から被る。慣れていない肌がその温度にびっくりしたのか熱いと言うより痛みを伴ったが、二度、三度と繰り返せばすぐに肌に馴染んでいき、

昨日まで続いた疲れが泡と一緒に流れていく様だった。

つま先を伸ばし水面に触れる。お湯に触れた箇所からじわじわと熱が全身へと伝わる。浴槽の中には一段、段差があった。まるで仕様は大浴場だ。その昔、沢山居たという修行生達も此処で仲間と一緒に疲れを落としたのだろうか。鼻先までお湯に沈み込むと磨り硝子の向こう側にボンヤリとした影が浮かび上がる。


「どう?お湯加減、熱くない?」


外から聞こえてきた緑の声に「丁度いい」と返す。初めの熱さなどもうなく、よく肌に馴染んでいる辺り適温だったに違いない。


「そう、ゆっくり浸かるんだよ。出たら朝ご飯にしようか」

「...うん」


磨りガラスに映った影が消えていったのを見送り、浴槽の淵に頭を預けると、天井に上がった湯気が溜めた水滴が水面で跳ねた。


催事場からの帰り、疲れた身体はかろうじて動いてはいたが、頭は既に眠っていた。

手を引かれるままに此処、あんず堂へとやって来てあの一部屋に布団を引いてくれた。その後の記憶はない。

シャツのボタンは一つ外されていたくらいで何も変わっておらず、お日様の香りに包まれ泥の様に眠ったのだろう。目蓋は重いが頭の中は幾分かすっきりとしていた。

しかし、全てが晴れていくわけではない。緑はどうして自分を引き取るなど言い出したのか。

歳は、確か父より十程下と聞いたから26とか7とかそれくらいだっただろうか。

父が語る小鳥遊緑たかなし りょくという人物は、もっと神秘的で影のある人物だと思っていた。けれど、想像と実際は相反するもので、本物の彼は寝癖か元か分からぬ猫っ毛が四方に跳ねていて、明るい髪色が想像よりもずっと近くになった。

父が話す緑は子供ながらに不思議な雰囲気を纏っているとは思っていたが、それでも似合う説明は分からないでいた。

なぜ、自分を引き取るなど言い出したのか。

可愛げがあった訳じゃない、理不尽に喚き散らす子供だ。どんな事情があったとて、是非とも遠慮したい。自分ならきっとしなかっただろう。


それでなくとこも、家ばかりは立派であるが、近年、葬儀写真館は数を減少させてばかり、人一人養うのだって苦労があるだろう。

同情、哀れみ、気紛れ。

幼い自分の頭には精々その程度しか思い当たる節もなく、それが暫く、緑から距離を置かせた原因だったかもしれない。

それ程に父の存在が大きかったのだろうか。自分が考える事ではない為、答えなど出る筈ない。

けれど、血の繋がったあの親戚達に比べたらずっと優しいのもまた事実。


肩まで浸かったお湯は、良く冷えた身体を温めてくれる。見上げた窓からは青空が広がっていた。


髪の水分をタオルで拭いながら居間へと廊下を辿ると、見なくとも分かるほどにいい香りが鼻腔を通り抜けていく。居間の畳に踏み込めばやはり、机の上には白ご飯に味噌汁、焼き魚と卵焼きが並んでいた。その割烹着からして緑が作ったのだろう。

出来立てを象徴するゆらゆらとした湯気に香りが重なり、ぐぅ。と一声、腹の虫が鳴き声を上げた。


父は不器用な人だった。特に仕事以外の細かな事が苦手で、言わずながらご飯は旨いとして食うものではなかった。

不味くは無いが、美味くもない。全体的に味付けが大雑把で、良く言えば男の料理だ。不味く無いのは愛情で補っていると笑っていた。

その中で、唯一美味しかったのは卵焼きくらいのものだろうか、だし巻きのほんの少ししょっぱいのが父の味だった。


「卵焼きは八積やつみさん直伝だよ」


まるで心の中を覗かれた様な気分だった。髪と同様に黒が少ない瞳は全て見透かしている様にも見て取れる。何が変わる訳ではないが反射的に胸を隠す様に拳を握った。


「弟子は料理とか掃除とかするんだけど、八積さん、これ以外料理は空っきしでね。努力しようっていうのは見て取れたんだけど。今も変わらない?」

「...不味くは、ない」

「そっか、きっと潤葉のお陰だね」目を細めてそう言った。


シャツに割烹着と些か不釣り合いな組み合わせも、見ているうちに不思議と似合って見えてくる。

正面に腰を落した緑が手を合わせたのでそれに習う。


「いただきます」

「めしあがれ」

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