第四章・5
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愛稀はダイニングテーブルの上で、花のように左右に開いた両手に顎を乗せ、はぁ――とため息をついた。
横目で隣を見やる。見るからに美味しそうな料理が並んでいるというのに、それを食べてくれる旦那はいない。凜は近頃、自分たち家族を気遣って、帰りは早かったはずなのに。愛稀もこんな状況ではあるが、夕食だけでも3人で一家団欒を過ごしたいと、料理に腕によりをかけていたものだった。
(今日も特に遅くなるとは聞いてないのになぁ――)
そう思う愛稀の向かいで、真綾が言った。
「ママ、お腹空いた」
「はいはい、もうちょっと待とうね」
頬杖をついたまま、愛稀は言う。とはいえ、幼児である真綾をこのままご飯も食べさせず、起こしたままにしておくのはよくないだろうとも思えた。そろそろ、この子だけでも食べさせようか――そんなふうに思った矢先、
ウイィン――。
リビングのテレビが急に起動音を発した。
「――え?」
愛稀は驚いて、その方を見やった。テレビに向かう視線の道中に、背の低いリビングテーブルの上に置かれたリモコンが見えた。誰かがリモコンを操作したわけではないことは明らかだ。
(奇妙だな――)
と思いながら、愛稀はテレビを消そうと椅子から立ち、リビングへと向かった。リモコンを取り消そうとしたところで、彼女の顔が引きつった。リモコンが床に落ち、がたんと音をあげる。
「ママ、どうしたの?」
と言って、愛稀の方にやってきた真綾も、画面を見て身体を硬直させる。
テレビには、どこかで見た湖の風景に、見覚えのある男の姿が映っていた。男を見た場所、それはN市の病院以外の何物でもなかった。余城が今、自分たちの前に現われている。
余城はこちら側に向かって腕を伸ばす。手がぬっ、と画面から飛び出した。
「――ひっ」
愛稀の隣で、真綾が引きつった声をあげた。余城はみるみるうちに、2次元の世界からこの3次元の世界に姿を移していた。愛稀は呼吸を整え、気持ちを落ち着けた。臆してはならない――という凜との取り決めを思い出したのだ。
「挨拶もなしに入ってくるなんて、無礼な客ね」
愛稀は余城を睨みつけて言った。余城は何も応えず、愛稀と真綾を交互に見た。
「何の用?」
愛稀は再び言う。余城は真綾の方を指さして言った。
「君にしよう。この子をもらっていく」
「真綾を!?」
愛稀は咄嗟に真綾の肩に手をかけ、自分の方へと引き寄せた。真綾も愛稀の服の裾を掴んだ。
「――させない」
愛稀は腰をかがめ、臨戦態勢に入った。娘だけは何としても守らなくてはならないと思った。
そこへ、玄関の方からばたんという音がして、どかどかという複数の足音がこちらに向かってきた。ばたんと扉が開く。見れば、佐原夫妻をはじめ、マンションの住人が20人ほど立っていた。愛稀は愕然となった。このマンションだけでもこれだけの人数が、余城に支配されていたのだ。
「真綾、あっちで隠れてて!」
真綾は愛稀の言葉に従い、部屋の隅へと走った。身体を縮めながら、母親を固唾を飲んで見守る。
住民のひとりが襲いかかってきた。がたいのいい男だった。愛稀は右手に力を込め、男の顎に一発喰らわせた。男は後ろに反り返って、リビングテーブルに激突した。アクリル板がめきっと音を立てて割れた。
さらにやってきた住民は、首根っこを掴んでその場に叩きつける。
しかし、数人ならば問題ないものの、多勢に無勢――住民たちに押さえられるのは時間の問題だった。愛稀は住民たちに取り押さえられ、その場に押し倒された。余城がゆっくりと真綾の方へと近づいてゆく。
「真綾、逃げて!」
そう叫んだ矢先、住民のひとりが愛稀の口を塞いだ。愛稀は身動きも、声を発することもできなくなった。
脅えて今にも泣きそうな真綾に、余城は腰をかがめ、ニンマリとした笑みを浮かべた。
「驚かせて悪かったね。でも、怖がることはないんだよ」
余城はこの場にそぐわないような、妙に優しい声で言った。
「おじさん、どうしてこんなことするの?」
声を詰まらせながら、真綾は訊いた。余城はやはり優しい声で答える。
「君とね、ぜひ話がしたかったんだ。ちょっと私と来てくれるかな」
「…………」
「そうしたら、君のママにも、これ以上危害は加えない」
「――本当?」
「ああ、約束するよ」
こくり、と真綾は頷いた。余城が差し伸べる。彼女はそれを掴んだ。
(真綾、行っちゃ駄目……!)
愛稀は声にならない声で叫んだ。真綾はそんな母を見て言った。
「ママ、心配しないで。すぐ助けてあげるから」
真綾は余城に連れられ歩いていった。愛稀の視界から、徐々に娘の背中がかすんでゆく。呼び止めることも敵わず、がくりと愛稀の意識は果てた。




