愛は惜しみなく与う(15)
目が覚めたら、深い緑に視線が吸い込まれた。
柔らかい草木の匂いもあって、森の中にいる気分になる。
「カーテ、大丈夫?」
何よりも先ずは君の無事を確かめなきゃね。
ユウリが開口一番に尋ねると、カーテは少しだけ驚いた顔をしてから、微かに笑った。
「ユウリ、好きだよ。友人以上に」
「……………………あ……ありがとう……」
「うん。お水貰ってくるよ」
頷いた彼女は壁の向こうへと消える。
…………あっさりし過ぎて流してしまった気がするんだが。
ユウリが違和感に悩む間もなく、カーテは水を入れたグラスを持って戻って来た。飲むように促され、冷えたそれを目の前にしたら、無性に喉が渇いて、彼は残りを一気に飲み干していた。
「もう一杯いる?」
喉に染みゆく感覚に長々と浸っていると、カーテはさっさとグラスを奪う。彼女の爪がグラスに当たってカンと鳴った。
それをユウリは咄嗟に掴む。
「ユウリ?お水はもう要らない?」
「……そうじゃなくて」
ユウリはカーテと目を見て話したくて、グラスを近場の机に乗せると、隣に腰掛けるよう手を添えた。
ベッドに並んで腰掛け、肩を触れ合わせる。
麻地のシャツ姿は彼女がこの場で落ち着いている証拠だから、安心した。少なくとも彼女が姿を消すまでにはコートと荷物の用意が必要だ。数分あれば、何らかの行動を起こせる。
「体調は?無理してない?」
二回目となる質問。
さっきは答えてくれなかったから。大丈夫なのだとは思うが、彼女の口からきちんと答えて欲しい。
「無理してない。本当に」
ユウリの不安を感じ取って一言付け加えたようだった。
「シアンさんの力だよ。分かる?シアンさんがいるだけでここの空気は全然違う」
「…………確かに」
澄んでいる。
目が覚めて直ぐに覚醒出来たのは、この空気のお陰なのかもしれない。
こんな風に清々しい気分になるのは、久し振りだ。自分でも気付かないうちにジワジワと蝕まれていた。そして、カーテはもっとずっと苦しんでいたんだ。
「君は二日間眠っていた。君が起きるのを私はずっと待っていたんだ」
「心配させた、ごめん」
「ううん。約束したからね。心配してないよ」
俺を信じて、君は。
「……待っていてくれてありがとう、カーテ」
「うん。…………ユウリ、私からも改めて約束させて――」
カーテの両手がユウリの手を包む。彼女の指先がユウリの手の甲を撫でた。
「――ユウリ、ずっと私の傍に居て。君を傷付けても、私が傷付いても、絶対にこの手は放さないで」
示し合わせたように指と指が絡まり、互いに手のひらを合わせて握り合う。額を合わせて、見つめ合う。二人の距離がゼロになるその瞬間まで。
「ああ、約束だ」
どちらが先だったかなんてどうでもいい。
ただ、彼らはごく自然に唇を重ねていた。
「私は君が好きなんだ。ずっとずっとずっと好きなんだ。友人以上に。……証明はできないけど」
雨が降り、光が注ぎ、世界が輝く。深い森が育んだ新たな命が目を覚ます。
君は俺の全てだ。
「証明なんて必要ない」
俺が君を好きで、君が俺を好きなら、それでいいんだ。
俺の為に涙を流して、俺の隣で笑って、俺と言葉を交わしてくれるなら、それが証明だから。
「そうだったね」と囁いたカーテは確かめるようにもう一度唇を重ねた。
交わした約束が、絡んだ糸が消えてしまわないように強く願って。
「リトラさん、ユウリさんの目が覚めたみたいです」
奥の部屋から駆けて現れ、飛び跳ねるようにシアンの肩に乗ったトカゲは、彼の頬にしなる尾を触れさせた。
「そっか。暫く二人だけにしてあげよう」
「そうですね」
暖炉の火を調節していたリトラは作業する手を止めると、静かに外へと出て行く。シアンも彼女に続いて外へと出た。
森の中にある開けた空間。
光の柱が静かに照らす。半透明の長い羽根を持つ昆虫が薄い影を地に下ろして天空へと飛び立ち、追いかける様に柔らかな風が原っぱを凪ぐ。まるで別世界のようなそこには、澄んだ空気が満ち、鳥達の歌声が響いていた。
「本当にここは……素敵なところですね。勿論、ループス村の家があったところも素敵でしたが」
「うん。師匠も私もここを一目見て、気に入ったんだ。あっちの方に川もあるし」
地面から盛り上がった木の根に並んで腰掛ける二人。木漏れ日の下で彼らは一件の家屋とその中で互いの想いを語り合う友人達を見守っていた。
「…………リトラさん…………リクさんのこと……」
「シアン、今はカーテ達の方だよ。ループス村の時から明らかに状況は悪化してる。カーテは芯の強い精霊だけど、いつまでも耐えられるって訳じゃない」
窺うように切り出したシアンに対して、リトラは冷静な口調で答える。
シアンはヒトと精霊が互いを尊重しながら共存出来る世界を目指して行動して来た。リトラとの約束を先延ばしにしながら。今ここで、シアンが優先事項を変えることは、リトラが待ち続けた時間を無意味にすることと同じ。
シアンは背筋を伸ばして、リトラを見た。容姿はループス村で別れた時と変わらないが、纏う雰囲気は違う。がむしゃらに目の前の兄の背を必死に追い掛けていた彼女は、足を止めて周りを見て、自分で選択して歩みを進めていた。
ならば、家族である前に、ヒトや精霊を守りたいという意思を持つ仲間として、シアンはリトラと話すことにした。
「根本的な解決になっていない、と言うことですね」
「シアンは原因に心当たりある?」
「はい。精霊は大地から魔力を得る。その魔力が精霊に悪影響を与えているのは間違いありません。そして、魔力の性質を変化させている原因はヒト同士の紛争でしょう。悪意により増幅された魔力が大地から溢れ、それを精霊が得てしまっている」
ヒトには感情があるから、負の感情によって増幅した魔力が大地に染み込むことは珍しいことではない。本来であれば、大地の持つ浄化の力や、シアンのような周囲の空間を清められる一部の精霊、負の作用を持つ魔力をエネルギーとする悪魔――複数の要素によって穢れた魔力は正常なものとなり、やがて世界の循環に戻っていく。しかし、今回は溢れた魔力の量が多過ぎた。一時的に増えたのであれば、それを糧に悪魔が生まれて鎮静化するが、恒常的に増えている為、浄化作用が追い付いていないのだ。
「ですが、その紛争の原因は異常気象による災害や作物の不作で、人々から心のゆとりが失われてしまったから。保身のために富を独占しようとし、貧富の格差は広がり、各地で略奪が起きる。動物達も餌の不足で凶暴化していますし。ならば、異常気象の原因は何か?」
原因のその先、根っこの原因を生み出した最初の何か。
シアンが答えを出す前にリトラが答えた。
「精霊」
――と。
「はい。僕もそう考えています。自らの意思で異常気象を起こす精霊。僕は過去に文献で見たことがあります」
「昔話してくれたよね。悲しい精霊の話」
「…………ルナミコー。月の精霊」
神様は地球という星に先ずは自らの涙を一滴だけ落とし、海を作った。それから、神様の力――魔力に満たされた海から、数多の生命が生まれた。
最初の地球には海しかなく、その中で数多の生き物が暮らしていた。
ある時、気紛れな神様は、星明かりしかない地球をより照らそうと思い、明かりの代わりとして月という星を作った。そして、そこから生まれたのが、月の精霊――ルナミコー。
ルナミコーは、地球が丸く、月が一つだけだと、反対側が照らせないからと、自ら光り輝く月の精霊として生まれた。
「光を届けるために月から生まれた心優しい精霊。ですが、闇に慣れていた地球の生物には、月やルナミコーの光は強過ぎました」
その眩しさから、行く先々で嫌われ、ルナミコーは悲しみに暮れた。光ることを辞められないルナミコーは、自らの姿を消す方法を考え、天候を操り、分厚い雲を作って空に隠れた。消えない雲に僅かな星明かりさえも失った地球は本当の真っ暗闇になり、地球の生物は慌てふためいた。
「それを哀れに思った神様は月とルナミコーの持つ光を封印し、月を光を反射させる鏡に変えました。また、太陽の近くに地球を移動させ、炎を生み出し、雲を晴らし、地球の一部を干上がらせ、大地を作りました。そして、眩しさに慣れた生物は大地に上がり、慣れない生物は闇が満ちるの海の底へと潜りました」
「太陽が地球に光を溢れさせ、月が仄かに反対側を照らし、光を失ったルナミコーはこの地球の何処かを当てどなく彷徨っている。時折、自らの存在理由を思い出しては力を使い、異常気象を起こす、と」
その昔、シアンがリトラに一度だけ話した物語を彼女は覚えおり、結末を答えた。
「そうです。愛されるために生まれたのに、誰にも愛されることなく、一人ぼっちになってしまった精霊。それが、月の精霊ルナミコーです」
ルナミコーは種族名であり、個体名。この世にたった一体だけ存在する月の精霊。異常気象が起きる時、中心にはその精霊がいると言う。ヒトと同じ姿形をしており、力を使っている時だけは、神様に封印された光を稲妻として大地に放つとか。
「ルナミコーはおとぎ話の中の精霊だと思ってた。天候に干渉するなんて、いち精霊の力としては規模が大き過ぎる」
「そうですね。ヒトは理由を求めるもの。ルナミコーの存在はその理由として好都合だった。後付けされた精霊かもしれません。しかし、僕という存在を生み出した研究所でも、ルナミコーのことは研究されていました。そして、限りなく存在すると、結論づけていました。僕は精霊研究に長けていた彼らの出した結論が誤りだったとは思えません」
「もしも、ルナミコーが存在するなら、どうして今……?」
「異常気象が起きることは問題ではありません。続くことが問題なんです。僕はルナミコーが悪意ある精霊だとは思っていません。異常気象が続くのは、ルナミコー自身が原因ではなく、外部からの刺激が原因と推測します」
伝説でしか語られない精霊をこの広い地球から探し出して、故意に刺激を与え、力を使わせる――少なくとも、正しい道へと通ずる行為とは考えられない。
「それは偶然?それとも、誰かがルナミコーを目的があって利用してる?」
「勿論、偶然であって欲しい。…………でも、違うのでしょう」
精霊を利用する者とは……。
シアンを生み出した研究所に属するようなヒトか。精霊をよく知る精霊か。それ以外か。
犯人が誰で、目的が何であれ、ループスは消滅し、カーテは暴走寸前まで追い込まれた。他にも、旅の中で多くの手遅れを見てきた。
「どうしたい?教えて、シアン」
リトラのそれは『考え』ではなく『望み』を訊ねるものだった。客観的かつ論理的に思考した上での最適解ではなく、シアンの主観的かつ感情的なただの願望を求めていた。
「あ………………」
「私は君の願いを聞きたいんだ」
「僕の……願い………………」
どんな答えでも、彼女は否定しないだろう。ただ、それがループス村で交わした約束の影響ではないとは、シアンには言えない。リクがいない理由だって、本当は分かっているのだ。
リクは待つことをやめた。
凄く苦しかったはずだ。
リクにとって、精霊は家族だ。幼い頃から多くの精霊に見守られて育った。砂粒みたいにどんなに小さく弱い精霊だろうと、リクにとっては親であり、兄弟だった。そんな家族が目に見えて苦しんでいるのに、動かせる手足があるのに、待ち続けるのは酷なことだ。
そして、そんな彼を隣で見続けたリトラが何を思うのか、想像できてしまう。
「……僕は……言いたくありません…………」
「どうして?」
リトラの穏やかな口調はリクのそれと似ていた。
「僕の言葉が二人を苦しめた」
隠しきれずに一瞬だけ歪んだ唇はリトラの心の内をありありと表していた。そして、シアンの目に静止画となって留まり続ける。
「師匠は私に言ったんだ。『俺はお前を置いていかない。俺はお前を捨てていく。だから、お前は俺を待つな』って」
「っ…………」
「……………………何度も疑った。シアンは本当に帰ってくるのかなって。そうやって疑う自分のことが凄く嫌だった。でも、師匠に言われた言葉を思い出して、私はもう本当に師匠と会えないんだって。帰ってくるのか疑うことも許されないんだって」
リトラの顔が近付き、シアンの肩に乗った。サラサラとした前髪がシアンから彼女の表情を隠す。
「確かに、苦しかった。シアンを待つだけは苦しかった。多くの精霊達が傷付いていたけど、私には何も出来なかったから。あの家を守ることしか出来なかったから。カーテとユウリのことも、シアンがいなかったら助けられなかったから」
リトラの手のひらがシアンの背中を探り、力を込めて抱き寄せた。
「師匠もシアンもいなくなって、精霊もいなくなって、お世話になった人達もいなくなって…………そうなってから、レイシーと師匠とシアンが守ってくれたはずのこの命を、誰でもない私自身が無駄にしたんだって……そう思う日が来るのかなって…………苦しくて、怖かったんだ」
紅葉のように小さかったはずの手は大きくなっていた。
「リトラさん……」
「でも、君は帰ってきた。約束を守ってくれた。…………だからこそ、私はもう誰かを待ったりしない。君を失いたくない。君の願いを聞いて、君のために行動したい。それが私のしたいことなんだ。もう、君に守られるだけの女の子じゃないんだよ」
身体を離した彼女は「だから、教えて」と手のひらをシアンに向けた。シアンが恐る恐る手を重ねると、リトラの両手が彼の手のひらをすっぽりと包み込む。
「どんな願いだって、私は君に付いて行く」
嗚呼、違う。
ちっとも守れてない。ただ、守りたかっただけだ。
全部、口だけ。
それでも……――
「僕は…………ヒトと精霊が共に歩める未来を望んでいる…………あなたとリクさんと一緒に……」
一緒に歩めていたはずだった。だが、今は欠けてしまった。
リクでもリトラでもない、シアンが手を離してしまったから。
しかし、そんなシアンの手をリトラは握り返してくれた。今度は外れないように力を込めて。
「師匠はずっと繰り返してた。私とシアンがいるところが家だって。私の家も同じだよ。シアンと師匠のいるところが家なんだ。だからシアン、前に進もう。今度は私が君を守る騎士として、君の進みたい道を切り拓くから」
シアンはリトラを守れてない。むしろ、シアンを本当に守ってくれていたのはリクとリトラだ。
「おかえり、シアン」
どんなに離れていても、シアンが帰れるように。ずっと。
彼女はシアンを守る騎士。
「ただいま帰りました、リトラさん」