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黄金の鏡像  作者: かる
11/11

⑩ 紅い煤の風景画

 馬車がエクラート公爵邸に着いた頃には、日はすっかり傾いていた。

「お前はしばらくここにいろ」

 馬車を降りると、ビジオールはそれだけ言ってすたすたと屋敷に入っていった。

「どうかなさいましたか?」

 遠ざかっていく主の後ろ姿をただ見つめているだけのジークトリグに、御者は怪訝そうに首を傾げた。



 (王弟……)

 ビジオールは自分の寝室に入ると、そのままベッドに腰かけた。暗い部屋に痛いほどの静寂が響く。すると突然、視界の端で蠢く闇が先程の残像となって襲い掛かってきた。耳元の声、肌に触れた熱、湿り気……そのすべてが足元から這い上がってきて、ビジオールは自身の身体をきつく抱きしめた。

(違う……違う、今日は違う……何もない、なんでもないことだ!)


__覚えているな? 


「違う!」

 ぐるぐると目の前が回る。ぎゅっと目を瞑れば、奥底に押さえつけられていた記憶が膨れ上がって吹きこぼれた。



○○○



 夏に差し掛かった夕暮れ時だった。

 どこか蒸し暑さを残すじめじめとした風が弱々しく吹く中、ビジオールは父親に連れられて王宮へと出向いた。何の用だったのかはわからない。お前はここで待っていなさい、と言い残して、父は国王たちとともに出て行ってしまった。つい最近、ビジオールの護衛騎士とやらになった少年ジークトリグもついていった。ビジオールは客室で一人、時を数えながら彼らを待った。するとしばらくして扉が開いた。しかしそれは、ビジオールの待っていた顔ではなかった。

『やあ、ビジオール。一度挨拶をしたことはあるけれど、こうしてきちんと話すのは初めてだな。私はユリゲラス。国王陛下の弟にあたる』 

 男はそう言いながら、ずんずんと部屋に入ってきてビジオールの隣に座った。

 親切な男だった。少なくとも、はじめはそうだった。父に突然連れてこられたこと、置いていかれてまだ戻って来ないこと……ビジオールの不満を一通り聞いた男は、その小さな頭を撫でて言った。

『それなら、お前の父親が帰ってくるまで私と遊ぼう』

 男はまず、秘密の探検をしようと言ってビジオールを部屋から連れ出した。それから何回も廊下を曲がったところで、小さな部屋の扉を開けた。

 その部屋に子供用の玩具などなかった。だから二人は手遊びをして遊んだ。ビジオールは手遊びをしたことがなかったが、本で読んでそのやり方は知っていた。そのうち知っているものをやり終えると、今度は男が新たな手遊びを教えてくれた。それは指を使うものから手全体を使うものになり、やがては腕の絡み合うものとなった。気が付けば、ビジオールの小さな身体には男の太い腕が蛇のように巻き付いていた。

『ユリゲラスさま……ちょっと、くるしいです』

 ビジオールはそう言ったが、しかし男はなにも言わなかった。ただ大きく見開かれた目が血走ってこちらを眺めているだけだった。

 そこで初めて、ビジオールは周囲の異常に気が付いた。部屋に入った時はまだ窓から日が差し込んでいたので気にならなかったが、この部屋には明かりが一つもなかった。外ではすっかり日が暮れたらしく、いつの間にか閉じられたカーテンが赤黒く佇んでいる。ビジオールは急に怖くなって立ち上がろうとしたが、毛の短いソファが底なし沼のように小さな身体を沈み込ませて、抜け出すことを許さなかった。身をよじればよじるほど、男の腕が食い込んで身体を締め付けた。やがて、先程ビジオールの頭を撫でた手のひらが不快な感触を残しながらシャツの下を探るように這い回り始めた。そしてその不快な感触は痛みとなり、刺激となり、気味の悪い音を響かせた。そうして一頭の獣は少年を貪り、窒息するほどきつく覆って、露わになった身体を包み込んでいった。



 男に連れられて父親の元に戻った時、ビジオールは何も喋らなかった。喋れなかった。自分の身に起きたことを話すだけの力も知識も持っていなかった。

 それでも、それから高熱に倒れ悪夢にうなされ続けたビジオールのうわ言や、その後断片的に彼が絞り出した言葉から、公爵、ひいては国王までもがその恐るべき出来事を知ることとなった。ビジオールはほっとした。これでもうあの男に会わなくて済む。男に制裁が下され、自分は救われるのだと思った。しかし、父親から聞かされた言葉は全く別のものだった。

『彼を罰することはできないのだ。あの方は国王陛下の弟君であり、我々は王家にお仕えする人間なのだから』



○○○



 (違う……あの時とは、違うのだ……今日は、今回は、今は)

 呼吸が乱れて苦しくなった。胸を押さえるようにして襟を鷲掴みにする。どくどくと鼓動が波打って、血管が千切れそうだった。その脈動に合わせて、ガンガンと頭が締め付けられる。耐え切れずに、ビジオールは髪を掻き回して膝に頭をうずめた。

(今は違う! 私は……私は王になるのだから……誰の手も届かない、頂点に……!)

「ご気分が優れないのですか」

 不意に声が聞こえて、はっと顔を上げた。

「明かりをつけましょう。それとも、もうお休みになりますか?」

「……ジーク。来るなと言ったはずだ」

「『しばらく』経ったので」

 ジークトリグは、手に持っていた明かりと水の入った銀の器をベッドのそばの台に置くと、器から白い布を取り出した。固く絞って水気を切ってから、ビジオールに近づける。しかしそれは到達する前に振り払われた。

「何をする気だ」

「汗をお拭きしようかと」

 言われて初めて、ビジオールは全身を包む不快な汗の感覚に気付いた。握りしめていた手のひらから足裏までもが、じっとりと湿っている。

「後でいい」

「しかし、お身体が冷えてしまいます」

 ジークトリグはさらに一歩近づいた。

「後でいいと言ってるだろうが!」

 そう叫ぶなり、ビジオールはいきなり立ち上がってジークトリグの手から布をひったくった。

「ジークお前、さっきからどういうつもりだ!」

「ですから、お身体を……」

「そのことじゃない!」

 ビジオールはジークトリグを睨みつけた。

「さっき、王弟宮で……庭園の侵入者を捕らえたと報告があった。近衛兵たちの話が聞こえてきたぞ、そいつの特徴……ゼフェから報告があった、ヒューベがゼフェの隊に潜り込ませていた奴の手先と同じだ! どういうことだ、説明してみろ!」

 わめきたてる主を前に、ジークトリグはいたって冷静に説明を試みた。

「ゼフェは貴方のご指示通り内通者を見つけ出した後、奴を殺さずに捕らえていました。『捨て駒』は使えるからと……。ですからゼフェに連絡し、今日に間に合うようにこちらへ奴を送らせたのです。ご心配なく、奴は薬で正気を失っておりますから、捕らえられても何も話すことはできません」

 しかし、ビジオールはさらに声を荒げただけだった。

「お前、私に何の報告もなく勝手な真似を……!」

「男爵の残党の始末は、私に一任してくださったものですから……」

「口答えするな!」

 ビジオールは我を失ったように叫ぶと、奪い取った布をジークトリグに投げつけた。

「何の為だ! 何の為にそんなことをした! なぜ私に教えなかった!」

「……」

 黙ったままのジークトリグに、ビジオールはますます激昂した。

「お前がすることは何もないと言ったはずだ! 何の為に備えた!? 何を危惧した! ただ委任状を取りに行くだけだと、そう言ったはずだ!」

「……それでも、用心しないわけにはいかなかったのです。私は貴方の護衛騎士なのですから」

「護衛騎士? 護衛だと?」

 ビジオールは眉をひくつかせながら、そう言って口元を歪めた。

「ふざけるな……今更用心するくらいなら、何故あの時守らなかったんだ!」

 その瞬間、ジークトリグの表情が変わった。それでもビジオールは止まらず、先程ジークトリグが持ってきた銀の器を手に掴むとそのまま目の前に投げつけた。中に注がれていた水がジークトリグの髪と服を濡らした。器は彼の胸に当たった後、ゴトリと鈍い音を立てて床に転がった。器を掴んだ拍子にぶつかったのだろうか、一緒に台に載せていた明かりがガシャンと倒れて消えた。

「出ていけ貴様! 今すぐにだ!」

 ジークトリグは無言で器と布を拾い上げると、一礼して入って来た時と同じように音もなく出ていった。再び扉が閉まると、部屋は完全な暗闇となった。

「……私は……私は……何もされていない。もう、二度と……何もされない……」

 うわ言のようにそう繰り返して、ビジオールはベッドのそばにしゃがみ込んだ。

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