限界ギリギリの病棟
朝六時五十分。
結衣は病院の自動ドアをくぐった。
「あー……」
思わず声が漏れる。
眠い。
とにかく眠い。
昨日の退勤は夜遅く。
家に帰ってシャワーを浴びて寝たら、もう朝だった。
「ギャルナース最大の敵は睡眠不足かもしれん……」
ぼそっと呟く。
だが病棟へ入った瞬間、眠気は吹き飛んだ。
ナースステーションが戦場になっていた。
電話。
ナースコール。
申し送り。
カルテ。
スタッフ全員が走っている。
「おはようございまーす♡」
結衣が言う。
「おはよう」
高木の返事は短かった。
その顔には疲労が滲んでいる。
結衣は少し驚いた。
高木はいつも冷静だった。
その高木ですら余裕がない。
状況は思った以上に深刻だった。
午前九時。
病棟はすでに大混乱だった。
ナースコール。
ピンポーン。
ピンポーン。
ピンポーン。
「誰か来てー!」
「検査搬送お願い!」
「点滴終わります!」
「先生呼んでください!」
あちこちから声が飛ぶ。
「分身したいんだけど!?」
結衣が叫ぶ。
佐藤が横を通る。
「無理だから走れ」
「ブラックすぎん!?」
「病院だからな」
正論だった。
さらに発熱患者が増えた。
隔離対応。
防護具。
消毒。
確認。
やることが終わらない。
結衣は廊下を走り続けた。
昼前。
事件が起きた。
杏奈が青ざめた顔で立っていた。
「結衣先輩……」
「どうした?」
「私……」
声が震えている。
結衣の顔が真剣になった。
「何があった?」
「薬の確認……間違えそうになりました……」
結衣は一瞬だけ息を飲んだ。
医療現場では重大な問題だ。
だが。
杏奈の目には涙が浮かんでいる。
結衣は責めなかった。
「患者さんには?」
「投与前に気付きました……」
「ならセーフ」
杏奈が顔を上げる。
「でも……」
「疲れてるんだよ」
結衣は優しく言った。
「今の病棟、みんなギリギリだから」
杏奈が俯く。
「私、向いてないのかな……」
その言葉を聞いた瞬間。
結衣は額を軽く小突いた。
「いたっ」
「バーカ」
杏奈が目を丸くする。
結衣は笑った。
「向いてない人は気付けないって」
「え?」
「気付いたから止まったんでしょ?」
杏奈は黙る。
「じゃあ大丈夫」
その言葉に杏奈の目が少し潤んだ。
「結衣先輩……」
「落ち込む暇あったら成長しよ♡」
杏奈が小さく笑った。
午後。
病棟はさらに忙しくなった。
救急搬送が二件。
発熱患者増加。
入院対応。
退院調整。
全員が走る。
全員が疲れている。
それでも止まれない。
午後四時。
結衣は患者の車椅子を押していた。
ふと鏡を見る。
そこに映った自分に驚く。
髪は乱れ。
目の下には薄くクマ。
頬も少しこけている。
「うわ」
思わず声が出た。
ギャルとしては大事件である。
「盛れてない……」
だが。
次の瞬間。
患者が言った。
「結衣さん」
「はい?」
「ありがとうね」
結衣は振り返る。
高齢の女性患者だった。
「最近忙しいのに、いつも笑ってるから安心するの」
結衣は固まった。
患者は続ける。
「結衣さんが来ると元気になるの」
胸が熱くなった。
疲れが少しだけ消える。
「えへへ♡」
結衣は笑った。
「それなら頑張れちゃいますね♡」
夕方。
スタッフルーム。
みんな無言だった。
疲労で喋る元気もない。
高木がコーヒーを飲む。
佐藤は椅子に沈む。
杏奈は机に突っ伏している。
結衣もソファに倒れ込んだ。
「終わった?」
杏奈が聞く。
「終わってない」
佐藤が即答。
「だよね」
全員ため息。
その時。
病棟電話が鳴った。
静寂が崩れる。
高木が受話器を取る。
そして。
表情が変わった。
「……わかったわ」
電話を切る。
嫌な予感。
結衣が聞く。
「どうしたんですか?」
高木は全員を見た。
「今夜、救急搬送が増える」
空気が凍る。
「さらに?」
杏奈が絶望した声を出す。
高木は頷いた。
「夜が本番よ」
誰も笑わない。
誰も喋らない。
病棟はもう限界だった。
だけど。
患者は待ってくれない。
結衣はゆっくり立ち上がる。
足は重い。
体もだるい。
それでも。
「よっしゃ」
拳を握る。
「まだやれる」
杏奈が驚く。
「先輩……」
結衣は笑った。
「ギャルなめんな♡」
その笑顔に、少しだけみんなの表情が和らいだ。
だがその夜。
病棟に本当の危機が訪れる。
誰も予想していなかった最大の急変が待っていた――。




