水の音? 国の未来? くだらない
そんなことより先生、本が読みたいです。
屋敷内の案内を終え、部屋に戻って日誌を整理するうちに夕食の時間となった。
給仕の先導で食堂へと向かう途中、エシュの異変に気づいた。いつもなら影のように無言でついて来るのに、ふらりと列を逸れ、外の気配を探るような素振りを見せたのだ。
「……エシュ?」
僕が声をかけても振り返らない。不安げに僕の袖を引く妹の手を握り直し、給仕に断りを入れてエシュの後を追った。
エシュが向かった先は中庭だった。そこには地下栽培の農園があり、壁に農具が立てかけられている。発光菌の青白い光が、整然と並ぶ薬草やキノコを照らしている。その一角、古い石畳が敷き詰められた場所で立ち尽くし、足元の石畳を睨みつけていた。
隣にしゃがみ込み、視線の先を探る。ただの古びた石畳だ。苔むして所々にヒビが走っているが、特に変わった様子はない。
「……水の声だ」
低い声で囁いた。僅かに眉を寄せている。
「水? ……地下水脈かな」
僕は周囲を見渡した。この屋敷は綺麗に管理されているが、その基礎は数百年も前から存在していそうな古い遺跡を利用したものだ。未整備の水脈や老朽化した配管が足元を流れている可能性は十分にある。
「流れる音が聞こえるの? それとも、漏れている音?」
「……解らぬ」
その言葉を最後にエシュは立ち上がり、食堂の方へ歩き出した。僕と妹は顔を見合わせ、エシュの後を追った。
エシュには、人間の心の声以外に、もっと別の声が聞こえているのかも知れない。
その日の夕食時、レナは姿を見せなかった。給仕によれば「急な公務が入った」とのことだ。詳しい事情は明かされなかったが、スープは温かかった。
部屋に戻り、昨夜から今までに観察したエシュの行動を日誌にまとめていると、控えめなノック音が響いた。
「奥様がお呼びです。日誌を持ってお越しください」
給仕の声だ。
「ユラは?」
「行く」
振り返るよりも早く、弾かれたように立ち上がった妹が僕の袖を掴んだ。一人で部屋に残されるのが怖いらしい。エシュも当然のように立ち上がる。
僕たちは給仕に案内され、屋敷の最奥にある書斎へ向かった。給仕が扉を開けた瞬間、息を飲んだ。
壁という壁の床から天井まで、ぎっしりと本で埋め尽くされていた。歴史書、科学論文、建築様式、心理学書、地上の小説。かつて僕が通い詰め、心の拠り所としていた「秘密の読書会」の会場でさえ、子供の遊び場に思えるほどの圧倒的な蔵書量だ。
「適当に座って」
部屋の中央の書類が積まれた執務机に向かい、レナは顔も上げず、書類仕事に没頭している。僕たちは机の前に置かれた客用の椅子に浅く腰掛けた。
やがてレナがペンを置き、日誌を手に取って確認する。
「……食事内容と量、睡眠時間、発言。……中庭での様子についても記されているわね」
その間、僕は緊張を紛らわせるために、本棚に並ぶ背表紙の文字を目で追った。『古代地底語の変遷』『発光菌の栽培と応用』『地上の空に関する考察』……興味を惹かれる題名の本ばかりだ。
「ロエル」
不意に名前を呼ばれ、僕は視線をレナに戻した。彼女は日誌を閉じ、真剣な眼差しを向けていた。
「この日誌は単なる生態記録ではないわ。エシュと私たちが『共存』できる可能性を証明するための証拠文書よ」
彼女は日誌の表紙を愛おしげに指先で撫でた。
「ここに書かれた文字の一つ一つが、一族と国の未来を左右する可能性を秘めているの。今日、貴方がエシュの『異常』に気づいたように、理解し制御できることを示さなければならないわ」
言葉は穏やかだが、その裏には計り知れない重圧と冷徹な計算が潜んでいるように感じた。どんな理想も、掲げるだけでは何も成せない。それを彼女は理解しているのだ。
日誌の内容が、レナの求める基準を満たした。その事実に達成感と安堵を覚えた反面で、それが政治という場で使われるのは何となく嫌な感じがする。
「……先生。一つ、伺っても?」
「ええ、何かしら?」
「先生は結局のところ、エシュをどうしたいのですか? 管理して利用するのか、それとも……」
レナは少し驚いたように瞬きをした。そして、ふっと表情を緩める。
「私は、未来と平和を望んでいるわ」
彼女の瞳には揺るぎない意志が宿っていた。
「もう遅いから続きは今度にしましょう。……ユラちゃんも眠そうだわ」
僕の肩に寄りかかる妹を見て、レナが微笑む。
「それと、本をお貸りしたいのですが、お許しいただけますか? 日誌を書く間、妹が退屈そうにしているので」
言葉を選びながら申し出た。
「ええ、もちろんよ。書庫になら絵本や事典もあるわ。休憩時間に読む子もいるから、共有の財産であることを忘れないでね」
僕は礼を述べ、妹の手を引いて書斎を後にした。
その夜、扉の開閉音で目が覚めた。妹は隣で寝息を立てている。寝返りを打つように身体の向きを変え、暗闇に目を凝らした。エシュの姿がない。
音を立てないように布団から抜け出し、扉を少しだけ開けて廊下を覗いた。明かりが消えた中を大きな人影が遠のいて行く。その後を追うと、向かった先は中庭だった。
深夜の中庭は、昼間とは違う静けさに包まれていた。発光キノコや苔が淡い光を放っている分、室内よりも明るい。
エシュは昼間と同じ石畳の上に立っていた。身動ぎもせず、地面を見下ろしている。まるで、大地の底から響く声に呼ばれ、そこへ引き寄せられているかのように。
しばらく様子を窺っていたが、何かを破壊したり、暴れたりする素振りはない。寒気と眠気を我慢できなくなった僕は、妹のいる温かい寝床へ戻った。
予感めいたものを胸の奥に押し込めながら。
いざ書庫へ。今からでも書庫へ。




