神の救い方(ME)
山奥の、地図にもろくに載らないような場所に、その神社はあった。訪れる者もほとんどいないその社を、神はただ静かに守っている……はずだった。
その日も神は、退屈しのぎに社を離れ、遠くにある集落を眺めながら歩いていた。
最寄りと呼ぶにはあまりにも遠いその村を、ただ「観察する」だけの散歩。役割らしい役割も感じられない日々の中で、それだけが習慣になっていた。
ふと、社の方角に違和感が走る。戻ると、境内に一人の人間がいた。
手には縄。結び目は丁寧で、強度も十分すぎるほど。荷物は最小限で、帰路を想定していないことは明らかだった。
神は一目で理解する。ここに来た理由も、これから何をするつもりなのかも。
本来ならば干渉する必要はない。だが神は、ほんの僅かな興味と、長く続いた無為への飢えから声をかけた。
「人間…何用だ。」
人間は少し驚いた顔をしたが、やがて諦めたように口を開いた。
語られたのは、特別でも何でもない、しかし確実に削れていく人生だった。
愛情はあったはずの家庭。だが優秀な兄弟姉妹と比べられる視線の差。
友人はいるが、その誰にも「一番」にはなれない立ち位置。
恋人もなく、ただ時間だけが過ぎていく。
唯一、自分の価値を証明できると思っていた仕事も、長い通勤と終わらない残業に溶かされていく。
残ったわずかな時間は睡眠に消え、その直前、ベッドの上で繰り返される思考……自分がいなくても何も変わらない、という確信めいた感覚。
「だから、終わりにしようと思って」
人間は淡々とそう言った。
神はそれを聞き、自らの役割を思い出す。
そして、初めてそれを口にした。
「ここは、生を捧げる場所だ。捧げられた生を糧に、この土地に活気を与える。それが我の役割だ。」
だが、その声には確信がなかった。
神は続ける。かつては人々が神に縋り、その循環は確かに意味を持っていた。しかし今や、人は神に頼らずとも土地を豊かにする術を持っている。
それでもなお、同じ役割を続けてきた。何も疑わずに。
「……だが、生を捧げた聖者も、世を乱す無法者も、何も知らぬ一般人も、最後を迎えて向かうのは地獄一択だ。それを知った時、我に何の意味があるのか、分からくなってしまった…。」
気づいた時には、神は社に籠るようになっていた。役割だけが残り、理由が消えた。
沈黙が落ちる。
やがて人間が、小さく笑った。
「似てますね」
互いに、不要だと思っている。互いに、意味を見失っている。
人間は縄をあまり邪魔にならないであろう場所に置き、静かに言った。
「どうせ終わるなら、あなたに生を捧げます。」
神は一瞬だけ考えた。そして、それを拒まなかった。
しかし直前で神は迷った。このまま終わればこの人間は最期まで報われない事になる。何も無い自分なりに何が与えてやれないかと考えた。
少し考えると神は人間を抱き寄せ、頭を撫でた。
価値があったと、存在してよかったと、言葉を重ねる。
最初、人間の身体はわずかに強張っていた。だがやがて、その力は抜けていく。
腕の中で迎えた最期の表情は、悲しみとも、安堵ともつかない、曖昧なものだった。
——それから、49日。
今日もあの日以外の日と変わらず歩いていると再び境内に気配が現れた。
神は歩みを止めた。懐かしさがあった。だが、あの時のような沈んだ気配はない。
社へ戻ると、そこに「それ」は立っていた。
姿は同じ。顔も同じ。だが、何かが決定的に違う。
人間だったものは、ゆっくりと振り返る。目が合った瞬間、わずかに目を見開き、そして微笑んだ。
そのまま、迷いなく近づいてくる。
神は動けなかった。引き寄せられるような感覚と、本能的な拒絶が同時に押し寄せる。
抱きしめられる。
強い力だった。振りほどけない。
耳元で、静かな声がする。
「神様は、あの時、私を救ってくれた。」
抑揚のない声。だが、確かな意思があった。
「だから今度は、私が救います。」
神はその瞬間、理解する。これはもはや人間ではない。善意でできた悪の塊を目の前にして神は急いで祓おうとする。だが声を出そうとした瞬間、胸が締め付けられる。
札に手を伸ばそうとすれば、その腕を押さえつけられる。
……何もできない。
思考が巡る。打開策を探す。
しかし、ふと疑問が浮かぶ。
「なぜ、抵抗しているのか。」
神であるためか。役割を守るためか。
だが、そのどちらにも、すでに意味を見いだせていない。
それならば……。
神は、力を抜いた。
抱擁を、受け入れる。
…そして侵食が始まる。それは苦痛ではなかった。むしろ、長く続いた空白が埋まっていくような感覚だった。
神は消えた。
この土地から、神はいなくなった。だが誰も気づかない。そもそも、そこに神がいたことすら。
役割から解放された二つの存在は、この世界とは異なるどこかへと歩き出す。
その表情は、これ以上ないほど、満たされていた。




