お嬢様(HE)
朝の光が柔らかく差し込む教室。窓際に座る俺は、今日もノートに目を落としていた。外の世界はまだ眠りの中で、風の音と自分の呼吸だけが耳に届く。
そんな静けさを破るように、軽やかな声が背後から響いた。
綾乃「おはようございます、佐藤さん」
振り返ると、そこには綾乃が立っていた。学校一の華やかさを誇るお嬢様。
整った制服に、ひとつも乱れのない髪。
微笑みは優雅で、まるで朝の光そのものをまとったかのようだった。
僕は軽く頭を下げて返す。
僕「おはよう、綾乃さん」
彼女は席に着くと、さりげなく俺のノートを覗き込む。
綾乃「また、難しい問題に取り組んでいらっしゃるんですのね。すごいですわ」
その声は、褒めるでも励ますでもなく、ただ淡々とした観察で、けれど心地よく響く。
ある日の夕暮れ。昇降口で帰り支度をしていると、思わず口をついた。
僕「……綾乃さん。やっぱり、あんまり一緒にいない方がいいと思うんだ」
真剣な声に、綾乃は首をかしげる。
綾乃「どうしてですの?」
僕「だって……家の格が違いすぎる。僕なんかと一緒にいると、君の評判にだって関わる」
言いながら、自分でも情けなくなる。けれどそれが正直な気持ちだった。
彼女の顔にふっと笑みが広がった。いたずらっぽく、しかし華やかに。
綾乃「なら、私が貴方のところまで堕ちる為にも、駆け落ちの覚悟をしてもらわないとですね」
僕「え?…なっ、なん」
綾乃「冗談ですわよ」
冗談。それでもその言葉は胸に鋭く刺さった。笑いを含みつつ、しかし逃げられない本気の匂いがあった。
そして他に、しばらく関わっていてわかったことがある。彼女は朝早くに登校し、放課後長い間図書室に居座り、迎えの車などを使わず徒歩で帰宅する。
偏見でしかないと思うが、そんなことをお嬢様という立場の人間が許されるのだろうか。
僕「綾乃さんは早く家に帰らないんですか?」
軽い気持ちで聞いたつもりだった。
綾乃は一瞬目を伏せ、唇を噛んだ。
やがて、小さなため息とともに答えた。
綾乃「……どうせ、本家を継ぐのは兄です。私のような末の娘には、何をしていようと大した意味はないはず。事実としてこのように帰りが遅くても何も言いません。けれど“保険”として、ある程度厳しい躾や教育が施される身勝手なあの家に……かなり不快感を感じているからですわ」
言葉は淡々としていた。だが、その瞳は悲しさと悔しさに染まっていた。僕は言葉を失い、ただ彼女を見つめるしかなかった。
その後は昇降口に沈黙が落ちた。
彼女は自分で吐いた言葉を後悔しているように、視線を逸らす。
僕は胸がざわつきながらも、どうにか声を絞り出した。
僕「……でもさ。俺は、綾乃さんがここで何してるか、けっこう好きだけどな」
綾乃「…?」
僕「朝から図書室にいたり、遅くまで残ってノートまとめてたり……。 なんか“お嬢様らしくない”っていうか。 そういうとこ、僕みたいなのにも近いんだなって思うんだ」
言い終えてから、顔が熱くなる。
慰めたつもりが、妙に子供っぽい言葉になってしまった。 彼女の耳にどう届いたか分からない。だが彼女は驚いたあと、ふっと口元を緩めた。
そして、少しだけ肩を揺らす。
綾乃「……まあ。佐藤さんって、時々とても無邪気ですのね」
いつもの調子に戻った声色だった。
それどころか、次の瞬間にはきらめくような笑顔を浮かべて――
綾乃「でしたら、いずれ本当に“駆け落ち”の覚悟をしていただかないと困りますわね」
僕「なっ……!」
冗談なのは分かっている。それでも、彼女の気品に満ちた言い回しは胸に鋭く響いて、心臓が跳ねた。
気まずい空気は、彼女の華やかな冗談によって、あっけなく塗り替えられていた。
そしてしばらくたった日の放課後の図書室。
夕陽が差し込む中で、綾乃は窓際に座ったままノートを閉じていた。 その横顔が、あまりにも沈んで見えて、僕はつい声をかけた。
僕「……綾乃さん、最近、ずっと元気ないよな」
返事はない。けれど彼女の指先が小さく震えているのが見えた。
僕「何かあったの?僕でいいなら言ってくれて良いからね。」
しばらく沈黙が流れた。やがて、綾乃は俯いたまま震える声で口を開いた。
綾乃「……兄に……身体を迫られました」
僕「……っ!」
思わず息を呑む。彼女はかすかに、泣くような顔をして言葉を続けた。
綾乃「でも、それは……愛情や誠実さからではありませんの。 “どうせお前は末っ子で、価値のない女だ”と……そんな風に、挑発するように。 私を見下して……。ただ、自分の優越を確かめるために」
綾乃の声が震え、堪えていた涙が滲み始める。
綾乃「今までずっと、“兄のため”と仕込まれてきました。望んでもいないことを強制され、意味があるのだと自分に言い聞かせて……。でも、結局は……私のプライドも、尊厳も……全部、踏みにじられただけだった」
最後の言葉は、もう涙に濡れていた。綾乃は必死に袖で目元を押さえながら、それでもこらえきれず、嗚咽を漏らす。
僕は胸が痛くて、言葉が出なかった。それでも、気づけば自然に口を開いていた。
僕「……綾乃さん。そんなの、絶対に間違ってる。あなたがどれだけ頑張ってきたか、僕は見てきた。誰がどう言おうと、綾乃さんのことを“価値がない”なんて言わせない」
握り締めた拳がじんじんと痛む。怒りとも、決意ともつかない感情が体の奥から込み上げてくる。
僕「……僕が、守って見せる」
その言葉は、自分自身への宣言のように響いた。 彼女の涙を見ながら、もう迷わないと心の奥で固く誓った。
駆け落ち当日。駅のホームで電車を待ちながら、二人は言葉は少なくとも、互いを見つめ合う。
僕「大丈夫、行きましょう」
綾乃の手は温かく、華奢だが力強かった。僕はその手を握る。
電車の扉が閉まり、夜の街を駆け抜ける。窓の外に流れる光が、二人の心を映し出す。恐怖も、不安も、喜びも。その瞬間、僕たちは初めて、何者にも縛られず、互いだけの世界にいた。
その夜、小さな宿で過ごす二人。窓の外には静かな夜風。 短い幸福を噛み締めながら、互いの存在を確かめ合った。 言葉は少なくても、互いを想う気持ちは確かだった。こうして、駆け落ちは無事に始まったのだ。
夜明け前の街を二人で歩く。 冷たい風に包まれながらも、手を取り合う温もりが心を支える。 綾乃は静かに微笑み、僕の手を握り言った。
綾乃「これからも……一緒に、歩んでくださいね」
電車が街を駆け抜ける。窓の外に流れる光は、二人の心を映すように揺れる。 駆け落ちは始まった。恐怖も不安もある。しかし、それ以上に、互いを支え合う確かな感覚があった。
質素な部屋、簡素な食事、だけど笑い合える時間。 綾乃は疲れた僕を気遣い、荷物を整理し、笑顔で励ましてくれる。 俺はその手を握り、言葉では足りない感謝を伝える。
しかし、安穏は長くは続かなかった。
ある夜、帰宅した僕たちは路地で待ち構えていた黒服たちに取り囲まれた。 無機質な靴音が地面を叩き、背筋に冷たい汗が流れる。
「……見つけたぞ、綾乃」
姿を現したのは、桐生家の長男だった。その口元には嗤うような薄い笑み。
綾乃の肩がぴくりと震えた。顔は蒼白で、唇がかすかに噛みしめられている。逃げ出そうにも、足はすでに石のように硬直していた。
綾乃「…あ……兄様……」
声は掠れていた。抵抗の意志など最初から持ち合わせていない。 小さな頃から従わされ続け、押さえつけられてきた習性が、彼女の体を縛りつけていた。
僕も同じだった。数の差、力の差、勝ち目などどこにもない。それでも僕は前に出た。
僕「渡さない」
自分でも驚くほどに声ははっきりしていた。恐怖に震えながらも、ただそれだけは言えた。
僕「綾乃は……渡す訳にはいかない」
黒服たちの間に、一瞬だけ沈黙が走った。だが次の瞬間、長男は鼻で笑い飛ばした。
長男「はは……情けないな。言葉だけは立派だが――お前に何ができる?」
その言葉を合図にしたかのように、黒服たちが一斉に動いた。僕には目もくれず、綾乃に襲いかかる。その間に僕が割って入る。だが、黒服達の拳が飛び、蹴りが突き刺さり、地面に叩きつけられる。呼吸が途切れ、意識が霞んでも、僕は必死に声を絞った。
僕「……綾乃……逃げて……!」
しかし彼女は動けない。ただその場に立ち尽くし、泣きそうな瞳で俺を見下ろしていた。
長男「見ろよ、綾乃」
長男は嗤いながら言った。
長男「言ったことを実行できもしない。無様に殴られ、倒れ、それでも強がる。――こんな情けない人間に、お前は守られるつもりだったのか?」
長男の声には陶酔が滲んでいた。自分の優位に酔いしれ、支配を楽しむ嗜虐の色。
血の味が広がる口の中で、僕はなお、同じ言葉を繰り返した。
僕「……渡さない……絶対に……」
――白い天井。微かな消毒液の匂い。耳に届くのは心電図の規則正しい電子音。全身に感じる痛み。
目を開けた瞬間、そこに綾乃の姿があった。ベッドの横の椅子に腰かけ、両手をぎゅっと膝の上で組んでいる。眠っていたのか、頬に涙の跡が残っていた。
僕「……っ!」
僕が突然の痛みに小さく呻くと、彼女の瞼がはね上がる。 一瞬、信じられないものを見たように息を呑み、次に弾かれるように俺の名を呼んだ。
綾乃「……佐藤さん!目が……目が覚めたんですね!」
堰を切ったように涙が溢れ、綾乃は慌ててナースコールを押した。震える声で「起きました、起きました」と繰り返しながら。
俺は喉の奥に残る痛みを押し殺し、かすれた声で呟いた。
僕「……僕……どれくらい、寝てたんですかね…」
綾乃「一週間です……。あの後偶然見回りをしていた警察の方が来てくれて、救急車も呼ばれて来て…でも…全く目を覚まさないから……本当に……もう、だめかと……」
綾乃は何とか涙を抑えながら、色々なことを教えてくれた。 その顔を見て、ようやく現実感が戻ってくる。
――しかし、テレビをつけても、新聞を開いても、あの事件の影などどこにもなかった。 桐生家の力で、徹底的に報道は封じられていた。
だが、それで終わりではなかった。
僕が眠っている間に、近所の人間が撮影していた“動画”が匿名でネットに投稿されていた。
画質は粗い。暗がりで顔もはっきりとは映らない。 それでも「黒服に囲まれ、集団で一人を殴打する場面」「それを見て動けず震える少女」「嗤うような青年の声」は克明に記録されていた。
信憑性など関係なかった。今の時代に必要なのは、“衝撃と話題性”だけだ。動画は一夜にして拡散され、 〈財閥の御曹司が暴行?〉
〈被害者は逃亡劇の末?〉
といった見出しが、半ば真実半ばデマのまま、SNSを埋め尽くした。
権力で封じたはずの事実が、今度は大衆の好奇心と怒りによって暴かれていく――。
僕はベッドの上でそれを聞かされながら、かすかな笑みを零した。
僕「……世の中も、捨てたもんじゃないかな」
横で綾乃が、涙で赤くなった目を丸くした。俺はまだ、動けもしない体を必死に起こそうとして、彼女の手を強く握った。
僕「桐生なんかに……君はもう、邪魔されない」
その言葉に、綾乃は震えながらも、こくんと頷いた。
退院の日、僕は綾乃にあることを黙っていた。長距離の歩行が困難になったこと――あの暴行の後遺症だ。
だが、駅のホームで、歩き出した瞬間に気づかれた。
綾乃「……あら、歩く速度が、いつもより……遅い」
軽く眉をひそめる綾乃。心臓が跳ね、言い訳の言葉が喉に詰まる。
綾乃「もしかして、後遺症とか黙ってらっしゃります?」
僕「……ごめん、言わずに黙ってた…」
綾乃は小さく溜息をつき、そして微笑む。
綾乃「もう……黙っていないでください。 あなたを支えるのは、私の望みなのです。ずっと支えさせてください」
その日から、日常は少しずつだが確かに変わった。 車椅子を押してもらい、手を取って階段を降り、疲れれば肩を貸してもらう。
あの事件の傷跡は消えない。だが、互いを信じ、支え合う時間が、少しずつ心を満たしていった。
数年後――
今でも僕は車椅子を押してもらい、綾乃の手の温もりを感じながら階段を降りる。小さな幸せが、静かに積み重なっていく日々。
そして、二人の薬指には小さな指輪が輝いていた。
過去の痛みも、苦しみも、すべてを乗り越えた証として。 僕たちは、ようやく――平穏の中で、互いの人生を生きているのだった。




