020 奴隷
伯爵家の私兵達が山岳を警戒しながら登る。
魔物はもちろん脅威であるが、彼らが最も恐れるのは獣人である。
獣人国と隣接するこの山岳は、王国の領土でありながら普通に獣人が闊歩する。
元々獣人が狩り等をしていた場所なので、獣人領と言っても過言ではないが、生来交渉事が苦手な獣人はいいように領土侵害されてしまっている。
そもそも獣人は領土などという概念が薄いため、狩りをさせて貰えるならば領土として主張するなどどうでもいいと思っているのだが。
故にここは王国の領土——であるにもかかわらず、獣人の狩り場にもなっているのだ。
獣人は狩りの邪魔をされるのを嫌うため、場合によっては戦闘になる事もあるが、戦争にまでは発展しない。
王国としても獣人の戦闘力は脅威であり、更に言えば魔王の一角である『獣王』と事を構える気は更々無かった。
その歪な関係によって、ここへ足を踏み入れる王国民はほとんどいなかった。
「まったく、厄介な場所に逃げ込みやがって……」
伯爵家の私兵ゲイツは歩きながら悪態をつく。
アイナを取り逃がしたゲイツは責任を取るべく、この山岳に向かう一団に組み込まれた。
索敵のスキル持ちであるゲイツは捜索の中核も担う為、いずれにしても外されるという事は無かっただろうが。
但し、索敵は生物に対してだけなので、方角までは定かにならない。
この辺りは地図も無いため、魔導具で位置情報を確認しながら牛歩で進む。
中々進まない行程に、全員が苛立ちを覚え初めていた。
そんな最中、ふいに索敵に人間らしきものが引っかかる。
「注意しろ!居たかも知れん!」
なるべく声量を抑えて、皆に警戒を促す。
獣人の可能性もあるので迂闊に手出しできないのだ。
ふいに、その索敵にかかった人間の動きが止まる。
「ちっ、気付かれたか!?おい、奴隷を先行させろ!」
Aランクのスキルを持つ奴隷であれば逃げられる事は無いだろうし、たとえ獣人だったとしても対処できるだろう。
伯爵からは獣人との戦闘など些事であると言われているので、最悪侯爵にもみ消してもらうつもりなのだろう。
多少獣人国と揉めるとしても、王国も戦争には及び腰なので何とでもなる。
だが、小娘を逃がす事だけは何としても避けねばならない。
一団の中央を歩いていた奴隷は黙したまま命令に従い、先にいるという人物の元へ向かった。
伯爵家の私兵達はそれを囲むように散開して追いかける。
果たして、そこには目的の令嬢アイナがいた。
逃げ出した時より肌つやが良く、健康的になっているように見えた事にゲイツは困惑した。
逃亡者が何故そんなに血色が良くなる?
誰かが食事等を与えたのだろうか?
協力者がいるのかと周りを警戒したが、それらしき人影は見えなかった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「こんな子供相手に力を使えと……?」
侯爵家の奴隷ルールーが忌々しげに呟く。
しかし、命令に背く事は出来ない。
抵抗しようにも、首筋に刻まれた奴隷紋が行動を促す。
「……くっ!すまんな娘よ、奴隷の身分故に私の意思は無視される。出来れば大きなケガを負う前に投降しれくれ」
見た目は雄々しい女格闘士だが、目元は優しさを顕わにしている。
しかし、意思とは無関係に両腕のガントレットは猛々しく燃え上がった。
炎を纏って戦う「炎魔闘士」というレアスキルを持ち、『炎拳』の二つ名で呼ばれる。
その驚異を目の前にしながらも、令嬢アイナは顔色すら変えていなかった。
「大丈夫。人間は食べる気無いから」
ルールーは意味不明な事を言う令嬢を見て、逃亡生活で頭がやられたかと哀れんだ。
なるべく奴隷紋の力に抵抗しようとはしてみるも空しく、自らの手足は目の前の少女に攻撃を仕掛ける。
焦燥が頭を駆け巡るも、意外な事に自分の拳は少女を傷つける事は無かった。
——避けた!?
『炎拳』の名は好きでは無かった。
後ろ暗い事をこなす度に上がった不名誉な名声だったから。
多くの荒事の中でも負けるという事はほぼ無かった。
同じく侯爵家の奴隷になっている他の2人ぐらいにしか、土をつけられた覚えが無いほどだ。
だから、年端もいかない少女が自分の攻撃を避けたという事実が信じられなかった。
連続で繰り出す炎を纏った拳は、ことごとく宙を切る。
自身を焼く事は無い為、攻防一体となる炎は巨大な塊になって襲いかかっている。
しかし、少女には全く届く気がしない。
異常な程素早い……というより、こちらが動き出す前にもう避ける体勢に入っているようにも見える。
未来が見えているのか?
いや、だからこそAランクスキルを持つ自分が借り出されたのだろう。
驚異と共に、内心では安堵していた。
子供を傷つけるなど、自由の身であったなら決してしない事なのだから。
でも、避けるだけではいつか捉えてしまうだろう。
早く投降してくれとルールーは願った。
「そろそろかな?」
そう少女がつぶやいた瞬間、ルールーの体は地を舐めた。
「なんだ……?急に体が……」
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
ゲイツは目の前の光景が信じられなかった。
つい一ヶ月程前にスキルを得たばかりの小娘が、Aランクと渡り合っている。
伯爵が占い師から得た情報ではFランクのスキルだという事だったはず。
まさか神官の評した『神』とは真実だったのか?
しかも僅か数分の後に、侯爵家の奴隷は地に伏した。
——何らかの攻撃を受けたっ!?
ゲイツの目には何も見えなかった。
不可視の攻撃——そんなもの相手にどう闘えばいいというのだろう?
しかし、このまま手をこまねいている場合ではない。
ゲイツは周囲に散った伯爵家の私兵に指示を出す。
気配を消しつつ、アイナを捕縛するようにと。
だが次の瞬間、ゲイツを含め私兵全員が地に伏した。
体の自由が効かず、僅かに指を動かすための力すらも入らない。
「い、一体何をされたんだ……?」
もがく事すら出来ない状態の中で、先にいる少女の声が聞こえた。
「今、その奴隷紋を解除してあげるよ」
伯爵家の兵達はそちらに視線を送る事さえ出来ない中で、驚愕した。




