7.セリー
季節的には初夏の気候。最後に簪をしっかり確認。…うん、これで良いよね?
ファゴットさんに手を振って、いつもの木漏れ日のトンネルをキキと一緒にゆっくり歩く。歩きがてら、お気に入りの蔓籠に目に付いたハーブや木の実を入れつつ。あ、鐘の音。
しばらく歩くと、朽ちた石垣が草花や木に紛れて点在するようになる。まるで滅びた古代文明の遺跡みたいで、それこそ御伽噺に迷い込んだみたいな風景。これの正体は…ほら見えてきた。修道院。
〜スミレの砂糖漬けとレモンバームのパウンドケーキ〜
「あら」
「おはようございます」
「おはよう、セリーさん」
小森のほとりまで出て来たところで、薬草園の手入れをしている彼女を見つけたので挨拶する。彼女はシスター・ヴィオレット様。ほとりに建てられている修道院のシスター長さん。まさしく淑女の鑑って感じの人で、ファゴットさんの次にこの世界で出会った人だ。慈愛に満ちた眼差しって彼女のこと。お歳はファゴットさんと近いと思う。でも全然、老いてる印象じゃなくて、むしろ成熟した女性って雰囲気の素敵な人なの。微笑んだ時の目尻のシワが素敵。声も綺麗だし。
でね、この修道院、昔はもっと広かったみたいなんだけど、少しずつ廃れて少しずつ小森と一体化してきたんだって。だからあの風景。小森が侵食しているというより、記憶を守ってるように見えるのは私だけかな?そう言ったら、そうかもしれないわねって朗らかに笑っていた。
当初は、やっぱり誰かに会うって勇気が要って。あの時は確か、花壇の手入れをしていらした。私を見つけて驚いてたけど、キキを見て悟ったのか、「はじめまして、可愛い魔女さん」と最初からやわらかく接してくれている。
「ふふ、やっぱり似合ってる。良かったわ、私はもう着ないから」
「こちらこそ、助かります」
何を言おう、今日のも含めて服を譲ってくれたのは彼女だ。
「ごめんなさいね、他の子達と同じ型のデザインの服を持ってたら良かったんだけど。私は好きで伝統衣装を着てたのだけど、これ、百年以上も前の古風なデザインなのよ」
なんてすまなそうに仰ってたけど、なんのなんの、私はクラシカル大好き人間なのですよ。知ってる?クラシックバレエの世界って民族衣装の世界。バレエで何が醍醐味って、色んな国の衣装を実際に着て踊れることよ。厳密には似せた衣装だけどね。でも、それが楽しみで踊ってるって言っても過言じゃないわ。
実際、頂いたもの全部、とても素敵なデザインだもの。見てこの刺繍、ソロチカっぽい!テンションあがる!確かにこれは典型的なものと少しデザイン違って色使いもシックだけど、この刺繍の雰囲気、絶対ソロチカ。ヴィシヴァンカでも良いわ。ご存知ないそこのあなた、今すぐ検索!民族衣装楽しいよ!
古着と言っても、元が凄く上等な仕立てみたいで着心地抜群。上品な織りで、肌触りが気持ち良い。胸下の切り替えラインから流れるドレープが綺麗。デザインが落ち着いた上品な感じだから、どこに行っても恥ずかしくないのが本当に助かる。
もしかして昔はやんごとないご身分だったのかな?って思ったら、なんと旧領主のご息女様でした。わぁどうりで気品溢れるワンピーススカート。タイトすぎず、ヒラヒラでもないからシルエットが綺麗に見える。全体的に、足首までさらりと流れるデザインが落ち着く。締め付けもなく、ゆるりと着ていられる。仕事柄、ピシッとした堅苦しい制服に慣れてたけど、着てて楽って大切ね。「秋や冬になったら、もっと暖かいものを出してあげるわ」だって。ありたがや。
舞台ではともかく、露出の多い装いって苦手なんだよね。だから制服のスカートも短くしてなかっただけなのに、そういう見た目だけで優等生認定するのやめてほしい。特に先生達。おっと、せっかくお出かけなのに愚痴っちゃった。やめやめ!
さて、今日は選んだ生成り色に合わせて、ワインレッドのサテンリボンを結んでアクセントにしてみました!あ、リボンは未婚女性は結び目を左前にするんだって。右前だと既婚者って意味らしいよ。見かける村の女性は本当に典型的なソロチカ。上下別でリネン素材で、刺繍ももっと色とりどり。女の子達はディアンドルスカートっぽいかな?可愛い。ほんと民族衣装って萌えるよね。
「セリーさん、今日はこれを届けてくれるかしら」
「はい。…わぁ、スミレ!?」
「そうよ。少し前に時季は終わってしまったのだけど、その時に摘んだものを砂糖漬けにしておいたの。代わりに、こっちのレモンバームがこれからね」
「お茶じゃなくてケーキですか?」
手渡された籠の中に、白い結晶で薄化粧された紫色のスミレとパウンドケーキが入っていた。こうして時々、お使いを頼まれる。スミレって食べられるんだ…と思ってまじまじ見つめてたら、おひとつどうぞ、だって!日本でも食用菊とかあったけど、そんな感じ?あ、でも甘い、って当たり前か。うん、不思議な感じだけど、花びら柔らかくて普通に食べられる。香りもしっかりするし。桜の塩漬けみたいにお湯を注いでも良いのかな?それにしても、レモンバームのケーキ…いやあの、ケチをつけるわけじゃないんだけど、昔、葉っぱの良い匂いに騙されて食べて苦い思いをしたからね、どんな味なのかなって気になっただけだよ、ほんとだよ!
「日差しが強くなってきたから、気をつけてね」
「はい、いってきます」
「いってらっしゃい」
修道院は、いわば村の人たちのコミュニティの場って感じみたいで。よく見かけるのは、お年頃の女の子達かな?ヴィオレット様と一緒に、いつも楽しそうに何かをやってる。女子会みたい。
それで、一応、こんにちはって言えばこんにちはって返してくれるけど…まぁ、イマイチ距離があるのは仕方ない。こっちはポッと出だもの。十代の子達からすれば、私なんてオバサンだろうし。そのうち気兼ねなくお話し出来る日が来るのかなぁ。
さて。
ここ、ミューゲはの地平線が見渡せる、中近世のヨーロッパを想わせる土地だ。
小森を出て、修道院の敷地を境にして白樺林が少し続く。きらきらとした木漏れ日とそよ風を抜けると、やがて緩やかな坂に沿うようにのどかな村が広がっている。心踊る瞬間だ。ヨーロッパの写真集を眺めて想像していた理想郷そのもの。
バレエもそうだけど、海外旅行に行かれない分、国内外いろんな写真集や画集眺めるのが趣味になってた。喫茶店に置いてあるものなんて、お客さん以上に読み込んでた自信ある。そうやって人並みに憧れつつ、まぁいつかねなんて思いながら日々現実を過ごしてきたっけ。
日本の村とはイメージが違って、家なんかは石造りで石畳みの道もあるけど、緑も豊富で全然殺風景なんかじゃない。個人の家の塀や柵から緑の葉が溢れてこぼれてて、花が咲いている。白樺林まで延びている中心の道は、どうやら王都から続く街道の最終地点らしいのね。
建物はみんな基本的に、濃淡組み合わせたベージュ系の石で統一されている。門や柵、窓の手摺りは黒系の真鍮。唐草など植物を模した細工は繊細で、職人さんの腕が光ってる。
窓際に揺れるのは白いレースカーテン。石のベージュと、黒と白のアンサンブルがとてもシックで、全体に纏まりを生んでいる。建物自体がモノトーンっぽいから、庭の草花が良い具合に上品な華やかさを添えてるのね。スズランなんか割と多い。ミューゲってスズランの意味なんだって。
あとよく見かけるのは、木香薔薇みたいなのかな。厳密には違うのかもしれないけど似てる。これ好き。蔓性で、緑と小さな淡い色の花のカーテンみたいなところも良い。大輪の薔薇よりこっちの方が、素敵だなぁって思う。可愛いよね。日本でも近所で育てている家があって、やっぱり道の方まで溢れるように咲いてた。疲れた夜道で見ると癒されて、少し思い入れがある。
のんびりゆったり、そんな風景を眺めながら歩くとーほら、黒猫の看板。
「あらセリーちゃん、おはよう!」
「おはようございます」
「待っててね、すぐ支度させるから。あぁもうあの子ったら…リュート!リュート!セリーちゃん来たわよー!」
よく磨かれたアンティーク調の扉を開けると、直ぐに気づいてくれてパタパタと奥へ駆け込んで行った。本日もお元気そうで何よりです。なんだか彼女は少女みたいで可愛い。微笑ましくてほんわかしていると、「まったく…」と後ろから声がした。
「あの人も懲りないな…」
「あ…」
振り返ると、琥珀色の瞳が静かに見下ろしてきて、目が合う。ふっとやわらいだ目元に、胸の奥で音がした。
「セリー」
私の新しい、この世界での名前。
彼に呼ばれるたびに、馴染んでゆく感覚が、どうしようもなくこそばゆい。
「おはよう。体調はどうだ?」
「おはようございます、リュート。大丈夫ですよ?これ、ヴィオレット様からです」
「ありがとう。…あぁ、スミレか。これのシロップは咳止めになる」
「そうなんですか?」
彼は既にお出掛けの装いで立っていた。
と言っても、普段より少し身綺麗にしているだけで、決して堅苦しい格好ではない。もちろん普段が見苦しいわけでもない。
「あの、私、遅かったですか?ごめんなさい…」
いつもは、私が来てから朝のお仕事を終えて出てくるのに。やっぱり時計求む。いつまでもファゴットさんの体内時計に頼っちゃダメだわ。
「そんなことはない。本当だ。ただ、作業のキリが良かったのと、今日は少し遠出をするから、早めに着替えて来ただけだ」
アイロンが綺麗にかけられた、やわらかそうな生地の白いシャツに、生成り色のブーツカットパンツ。腰にはワインレッド色の布を巻いてベルトにしてる。…あの、なんでこんなに着こなしがエレガントなんですか?シャツもズボンも特別なものじゃないのに、最高級品に見える。
彼はどちらかと言うと細身なのに、シンプルな服装が貧相に見えないって凄いな。なにこのイケメン。アクセサリーは何もないけど、シャツの襟元や袖口にある赤い魔除けの刺繍がお洒落。第二ボタンまで寛げた襟元を見ちゃいけない気がする。…あ、ダメ、見惚れる。
はい、皆さん、ご注目あれ。この方はこの家のご子息、リュート・セレナード様です。貴族ではなくしがないパン屋の一人息子ですが、思わず様をつけたくなるほどの紳士様です。ジェントルマンです。ーそして、こんな私を異性として好きだと言う、世界で一番の変わり者です。
「ん?」
ぼぉっと見つめてると、不思議に思ったのか僅かに小首を傾げてきた。なんでこの人は、たったそれだけでサマになるんですかね…?ん?ってなんですか、ん?って。やめて、耳の近くで囁かないで。うぅ、この微妙な身長差が憎い…彼がもっと背が高いか私がもっと低ければ良かったのに。溶ける。耳がバターみたいに溶ける。本当にその声反則。
しかも甘い。砂糖じゃなくて蜂蜜っぽい。そういえば瞳の色も蜂蜜っぽい。でもベタベタじゃない。例の先輩は好意をベタベタ押し付けて土足で踏み込んできたけど、彼は丁寧に掬った蜂蜜をそっと差し出してくる。それで私が食べるの待ってる。なにこれ。
いや、なにこれっていうか、これいつもだけど。いつも…それで、私がなんとか受け取って食べると、嬉しそうにするの。なんでって、彼は、私が、好きだから。
……。
あぁぁああああなにこれなにこれ。ねぇ待って、なにこの乙女思考。
なんで私こんなドギマギしてるの?ドキドキしないんじゃなかったの?私こんなキャラだったっけ?おかしくない?鍛え抜かれたはずの鋼鉄製のポーカーフェイスがぐにゃぐにゃになりそうなんですけど?
だってこの関係になって、まだひと月も経ってないよ?もうすぐひと月になるけど。別にまだ恋人同士っていうわけじゃなくて、彼がいろんなところに連れて行ってくれてるだけなんだけど…あれ、これデート?デートなの?ていうか、まだってなに。待って、私もっと硬派のつもりだったのに、あれ?
「やだ、リュートったらそこにいたの?」
「毎度、大きな声で呼ばなくても間に合っている」
「だってあなた、セリーちゃんとデートするっていうのに、いつもギリギリまでこっち手伝うから」
「彼女がそう望んでるんだ。いつも通りの方が気兼ねしない。…セリー?どうした、具合が悪くなったか」
堂々たるデートの言葉にむせそうになったんです。全力で押さえ込みましたが。だからそんなに顔を近づけないで大丈夫です。…近い近い近い、「顔が赤い」ってそれあなたのせい…!!ほら、お母さんのきゃっぴきゃぴの笑顔どうするんですか。お父さんもなんでそんなに嬉しそうに笑ってるんですか…助けて下さ「あら、今日の二人の服、色合いがペアルックみたい!可愛いわぁ」…もう勘弁して。
この世界で目が覚めてふた月。
ー彼に告白されて、三週間と少し。
『君の名を呼ぶことを、許して欲しい。俺の名も、覚えてくれ』
あの数日後、「この土地を案内したい」と彼は申し出てくれた。その差し伸べられた手を、取らないという選択肢は、どこにもなくて。
今、私達は、知り合い以上恋人未満の関係を続けている。