並べられた瓶たち
その後の授業を夢見心地で終え、【あ~る珈琲】へ向かう。昨日よりはもうちょっと使えるヤツになりたい。
店に着くと、今日は指定された裏口から中へ入り、ロッカーのある小部屋へ向かう。ロッカーの中からエプロンを取り出し手早く身に着け、荷物を入れる。傍らにある姿見でチェック。よし、悪くない。
ふと、何かの気配を感じてそちらを見るが、すぐに居なくなってしまった。なんだろう? まぁいいか、もう行かなければ。今日は昨日より少しだけ遅くなってしまっているので、早く行かないと。特に時間が決まっているわけではないが、やる気のあるところを見せなければ。
「おはようございます」
裏からカウンターに入る。バイトに入る時はおはようございます、帰る時はお疲れ様、これはどのバイトでも鉄板のはず。
「おはよう、渡辺くん。今日もよろしく」
今日も店長が珈琲を淹れる様は美しい。店内の客の数はそれほど多くない。まずは溜まっている洗い物を淡々と片付ける。自分でもかなり手際が良くなった事がわかる。
手早く片付け終わり、昨夜指定された別の仕事に移る。店長に声を掛けてから、ソファのあった部屋へ移動。今日の新しく指定されたお仕事は豆の詰め替え。袋入りの豆を棚に並んだ瓶へ移し替えるのだ。
まずはズラっと棚に並べられた瓶に書いてある銘柄を確認する。マンデリン、ブラジル、コロンビア、ケニア。色々なラベルの瓶が並ぶ。しかし良く見ると、同じ銘柄のものでも色々あるのがわかった。
このラベルには「マンデリン」と「Medium」の記入があり、付箋で「一日目」と「6月6日」と書いてある。中の豆は栗色で、ミディアムが中煎りの焙煎の事を指している事がわかる。その隣のラベルには、「マンデリン」「Medium」と、付箋で「二日目」と「6月7日」の記入。
そのようにして一日ごとに日付の違うラベルがあり、5日分が一種類となっているようだ。「Light」の瓶と「Frenche」の瓶、「Italian」の瓶が整然と並べられている。それぞれ色が微妙に違っており、粒が揃っている。
これだけの分量の豆を毎日焙煎して、それを細かく分けて管理するのは、それだけで相当な時間を要するのではないかと思う。それに仕入れた段階からこんなに粒が揃っているとは考えられないから、やはりこれも手間をかけて選り分けているのだろう。
僕は棚の前で半ば呆然としてしまう。そして、改めて店長の凄さを感じていた。
もし僕がこういう仕事をしていて、これだけやれと言われれば、もちろん出来るのだと思う。
しかし店長は、一人で店をやっている。だからもちろん店に出て、客に珈琲も作るだろうし、僕が来る前は一人で食器も洗っていただろう。掃除だって、発注だって、帳簿だって自分でこなさなければならないのだ。営業時間は、確か八時から二十二時のはず。その時間まで営業して、それから毎日こんな事までやっているのか? ここが企業であれば、間違いなく過労死レベルではないか。
もちろんここは店長の店だから、誰に何を言われるという事もないのだろう。だからと言って、健康をおろそかにしていいわけではない。何故今まで倒れる事もなく、一人だけで営業を続ける事が出来たのか、僕にはそれが不思議だ。
僕は学生で、特に社会人として勤めた事があるわけではない。だが僕の実家は自営をしている。まぁ喫茶店ではなく、十人程度の小さな工務店なのだから、もちろん違いはたくさんある。しかし、幼い頃から事務所に出入りし、父や母が社員さん達とどのようにやっていたのかを間近でみていた。仕入れの仕方や経営ノウハウ、客との折衝の様子など、門前の小僧ではないが見て覚えたものだ。
一般的なサラリーマン家庭と比べて、多少は経営に対する知識や心構えなんかも分かっている方だと思うが、その僕を持ってしても店長のあまりの個人経営主義には目を見張る。せめて数人ぐらい人を雇わなければ、近い将来倒れてしまうのが目に見えている。
僕は思いついた事を頭の中で整理しながら、手伝いの三日間において、なんとかこの店でバイトを開始する為のプレゼンテーションを模索する。
そう、これは決して僕だけの気持ちではなく、店長の体調に配慮するという意味もあるのだ。
固い決意を胸に、店長から任された作業をしながらも、頭の中は様々な情報が少しずつ形を成していた。