お願いは菓子折りと共に
今朝通ったばかりの道を逆に辿り、【あ~る珈琲】の前まで来た。大学からは電車で一駅の距離。ちょっと足を伸ばせば歩いて通えない距離でもない。住宅街から少しだけ外れた場所にあり、駅からも10分程度の場所にある。
外観は白壁とレンガが程よく組み合わせてあり、暗めの灰色という色彩の瓦屋根と相まって、モダンテイスト。右手には先程購入したばかりの、有名スイーツ店のクッキー。珈琲に良く合う味だ。
―― よし、準備は万端。出陣!
カランカラン「いらっしゃいませ」
ドアベルの音と共に、店長の声が迎えてくれる。
ポットからお湯を注いだ店長は、目線を上げると僕の顔に目を留めた。
「ああ、今朝の。もう大丈夫かい?」そう優し気に語りかけてくれる。
「本当に今朝はお世話になりました。ご迷惑お掛けしてすみませんでした。もし良かったらこれ、どうぞ」
すかさず最敬礼で紙袋に入った手土産を差し出す。
「そんなに気にしなくていいよ、でもありがとう。良かったら何か飲むかい?好きなとこに座ってよ」
やっぱりいい人だ!優しい笑顔でクッキーを受け取ってくれた。
そのまま淹れたての珈琲を注文した客へ提供しに、優雅に歩を進める。動作の一つ一つがスマートだ。
僕はカウンターの椅子に座り、店内を眺める。
それほど広くない店内はテーブル席が6席と、横長のカウンターには椅子が10客ほど。全体に落ち着いた雰囲気に感じるのは、黒っぽい艶のある木の風合いの故だろう。
椅子の座面には革張りの薄いクッション。フラットな一枚板のカウンター。その後ろには、壁一面に並べられた様々な色と形のコーヒーカップ。テーブル席には格子窓から差し込む優しい日差し。珈琲の香りを邪魔しないジャズの音色。少し高めの天井には、空調を循環させる為のファンがゆっくりと回っている。
もうすぐ夕方という時間帯のせいか、客席はまばらに埋まっているだけだ。
―― やっぱりすごく居心地のいい店だな。
珈琲の香りを胸いっぱい吸い込み、うっとりと目を閉じる。
「じゃあ、ご注文は?」
「えっと……ブレンドお願いします」
「はい、少々お待ち下さい」
サイフォンに手早く挽いた豆を入れ、フラスコの水を火にかける。サイフォン式のコーヒーメーカーは、見ているだけで楽しい。フラスコからゆっくりと吸い上げられた湯がコーヒー粉を蒸らす。湯が上がり切ったところで、竹べらを使い1~2回撹拌させる。
「この辺には良く来るのかい?」
店長の素晴らしい手並みを見つめていると、そのように聞かれた。
「昨日大学入ったとこなんですけど、それがここからちょっと行ったとこなんです。 あ…… 僕は、渡辺 大輔っていいます」
「類家です。よろしく」
そう言っている間にも、繊細な模様のカップに注がれたブレンドコーヒーが目の前に置かれる。
僕はゆっくり香りを堪能しつつ、静かに一口含んでから喉越しを楽しむ。
―― おお…… このブレンドも、今朝の一杯とはまた違ってすごく旨い。
「渡辺くんは、ほんとに美味しそうに珈琲を飲むんだね。作り手としては嬉しい限りだよ。」
店長が目を細めて僕の様子を眺めていた。
「はい! 僕コーヒーが大好きなんですけど、店長さんの作るコーヒーは格別で。 こんなに旨いコーヒー飲んだのって初めてです」
「ははっ、嬉しい事言ってくれるね」
「お世辞とかじゃなくて、ほんとのほんとに、なんですよ?」
ありがとう、と目の前にナッツの入った小皿が置かれる。
「もう二日酔いは抜けたのかな?」
「はい、おかげさまで。店長の淹れてくれた珈琲で随分頭がすっきりしましたよ。今朝のはこれとまた違うブレンドですよね?」
店長が少し片眉を上げてこちらを向いた。
「そうだよ。良く覚えてたね」
「珈琲は大好きで毎日飲んでるんです。まだまだテイスティングとかは無理ですけどね。いつもは酸味の少ないブレンドの方が好きですが、今朝は不思議と酸味の強いのがすごく美味しくて……」
「ふふっ、二日酔いにはなかなかいいだろ?」
店長と珈琲談義に花を咲かせるのはとても楽しい。でも雑談だけで終わっていては、今日来た意味がない。
―― よし、この流れで行けば……。
僕は覚悟を決めて切り出した。
「それで…… 店長にお願いがありまして」
「ん? なんだい?」
ぎゅっと拳を握ると椅子から立ち上がり、再び最敬礼をする。
「僕を、こちらのお店で雇っていただけないでしょうか!」
「え?」
店長のきょとん、とした声が下げた頭の上から聞こえた。
※2017年 01月18日追記
店長と渡辺の会話追加しました。