8 濃くなった印
大通りをがむしゃらに走り、無我夢中で人のいなさそうな道を進んでいたノルの一行は、気付けば人の手があまりついていない場所にたどり着いた。ぜぇはぁ肩で息をして見渡すと、そこは町外れの森のようだった。
「……変なとこ来ちゃったかな……」
か細くて幼い、高い声の独り言が誰に言われるでもなく響く。それでもなんだかまだ街から逃げたくて、魔導書をまるでお守りみたいに抱きしめてゆっくりと歩き出した。
ガサガサと響く草を踏みしめる足音が耳に響き、日が当たらない場所特有の肌寒さが大きなシャツの隙間からノルの素肌を撫でる。昼頃ながらしっとりとした暗い雰囲気と合わさって、空気がどこか不気味にノルを誂っていた。
ふと、足を止める。鞄の揺れがなくなったことから何かを案じたのか、本の代わりに詰まっていた二頭が『どうした?』とか『何かあったか』と言いたげな様子で顔を覗かせる。バーサもエイザも辺りを見渡せば、そこにはもう人の声はなかった。
『……噂話の一つや二つなぞ、命令一つして我らに任せればすぐ辞めさせられるというのに、なぜこんなところまで?』
「だって、そんなことしたらバーサたちが余計いづらくなるじゃん。……それにもう、すこしも聞いてたくもなかったし……」
それは二人に手を汚させまいと、そして言葉の刃物に触れまいと、逃避方法をろくに知らないながらも選んだ本音の選択肢だとわかる。自身の使い魔がもとより噂話をされることの多い『ドラゴン』という種族なのを知っていても、主として守りたかったのだろう。街にいればいつまでも振り注ぐものから三人まとめてすぐに離れるべく、無い体力で無茶をしたとなればもう何も言えなかった。
人や悪意と離れて安心したのか、ノルから『くぅ』と一つ控えめな音が鳴る。それはろくでもない出来事に巻き込まれ続けた子供の、ようやく影を見せた空腹感だ。そういえば、昨日の昼に林檎一つ与えられてから何も食べていなかったななんて思いつつ、空気を台無しにしてしまったことを恥じてか顔を少し赤らめ腹を押さえる。
『……腹、減っているのか』
ポカンと目を見開いたバーサに聞かれて、ノルの顔が余計に赤くなる。事実だし、生きている以上は仕方のないことだが、改めて指摘されるとどうにも羞恥心が膨らんで仕方がなかった。
気まずそうに腹を押さえていた手で顔を隠すノルを一瞥したバーサに『気にすることはない』とフォローを入れられる。実際そろそろ昼時で、あとは喧嘩で体力を使っていた彼女らにもにも飢えはあった。
『……ふむ。それならば丁度いい、肩慣らしも兼ねて何か狩ってこよう。エイザだかエリザベスだか知らんがそこの老輩と待っておれ。』
『おい待て吾輩はエリザベスでは――』
『すぐ戻る、それではな』
それだけ言うとバーサは有無を言わせぬ速さで体を大きくしながら奥へ進んでいった。残されたノルとエイザは、その様子をただ見るしかできなかった。
◇ ◇ ◇
……十五分程経ったであろうか。
苦戦しているのかなかなか獲物が見つからないのか、帰りが遅いバーサを待ちながらカバンの中を出たエイザが、ふと口を開いた。
『……なぜ吾輩達まで己の身のように守ろうとする?』
三人全員であの服屋で聞いたような心ない噂から逃れるために街を離れたその選択に、彼は未だ疑問を持っていた。実際、彼は街一つなら何の力も借りずに軽く滅ぼせる。何かを殺すのも躊躇しない。本人的にもそれで回復魔法の分の借りを返せたら、仮契約のつもりの従魔契約も切りやすくなって御の字にもなっただろう。
それでも自分の所有物……いや、仲間として見た存在を損得勘定なしで守ろうとしたノルという子供が、エイザにとっては未知のものだった。
実際のところ、彼を含む高位種族は武器に頼るか媚びへつらうしかできない矮小な存在だと、人間という種族を見下している節がある。彼的にはすぐに絆されたバーサがおかしいだけで、ノルはまだ対等な場にすら彼の中では立っていない。
あの質問は、自身へのイメージを見るのと同時に目の前のものの本質を見定めるような意図もわずかにあった。媚びればそこで問答無用で終わり、そうでなければ仕草などでも内心を図って契約の存続を決める。存在をエイザしか知らないある種の裁判だ。
それでもノルはただ、エイザの目を見てこう言った。
「従魔って家族みたいなものでしょ? だから大切にしたいの。」
見えたのは、洞窟で確かにあった打算の無さだった。相手を見据えて離さない、しかし蛇が蛙を睨むよりずっと悪感情がない。その目線こそ人に真剣に向き合えることの証だった。
理由を聞けば、自身の家族を例に答えてくれた。どうもノルの母はガーゴイルを従えており、その扱いがかなり雑だったのだそうだ。こき使い、褒めもしない、ただ契約で縛った道具のようだったと。それを密かに気にかけており、同時に『自分がもし従魔を持ったら絶対にあれのような辛い思いはさせない』と誓っていたという。そのガーゴイルを母から解放してやれない代わりの、ノルなりの罪の減らし方だ。
これは、もしかしたら親に捨てられる程の無関心しか持たれなかったノルが、誰にも見られず余計なことも吹き込まれなかったからこそ保てた清い思いなのかもしれない。子は親や周りの背中をよく見る、染まりやすい生き物。それが自身の色を保てているというのは、おそらく己の受けた肯定か無関心の賜物なのだ。エイザはノルの過去こそ確かには知らないが、ルーネ達と『捨て子かもしれない』なんて話をした以上そういう風にはどこかで思えてしまった。
『……腑抜けたことを。あの若輩にこそ其れを言えば喜ばれただろうな。言う相手を間違えて、可哀想なものよ。』
そうぶっきらぼうに投げ捨てた言葉に嘲笑の意思がないのをなんとなく感じたノルは「そうかな?」と首を傾げていた。その頃にタイミング良く何かの獣を咥えて戻ってきたエイザにおかえりなさいを言えば、もうエイザのちょっと雑にかけられた言葉の真意に向ける頭はなくなっていた。
心なしかノルの左半身が温かくなった気がしていたのは、誰も知らない。




