7話 あなたのために香りを (完)
「……まだ、起きていたのか」
背後から伸びてきた逞しい腕に、リゼットの身体はすっぽりと包み込まれた。
夜風を遮る厚いカーテンの向こう、ディードリヒの私室は、微かな琥珀の香りと、暖炉の薪が爆ぜる爆ぜる小さな音だけに満たされている。
リゼットは、彼に背中を預けたまま、そっと首を振った。
シルクの寝着越しに伝わってくるディードリヒの体温が、驚くほど熱くて心地いい。
「目が冴えてしまって。……ディードリヒ様は、もう頭痛は大丈夫なのですか?」
「ああ。君が枕元に置いてくれた香油のおかげで、生まれて初めて、夜が来るのが楽しみになった」
ディードリヒは低く笑うと、リゼットの肩口にそっと顎を乗せた。
ふわりと、彼の柔らかい髪がリゼットの頬を擽る。その呼吸は深く、かつて出会った雨の日のような、狂おしい焦燥の気配はどこにもない。ただ、リゼットという存在に心から安らいでいる、一人の男の呼吸だった。
「リゼット。……少し、こちらを向いてくれ」
耳元で囁くような声に促され、リゼットが腕の中で寝返りを打つように振り返ると、すぐ目の前にあの真紅の瞳があった。
薄暗い手元のランプに照らされた彼の瞳は、とろけるような愛おしさに満ちていて、見つめられるだけで胸の奥が甘く疼く。
ディードリヒの大きな手が、リゼットの頬を包み込んだ。
親指の腹で、そっと輪郭をなぞられる。バルト兄様の家にいた頃には考えられないほど、今の自分は、この人に大切に、宝物のように扱われているのだと、肌の感覚が教えてくれる。
「もう、君の手を荒らすような真真似はさせない。君のその美しい指先も、髪も、心も、すべて私が守る」
「ディードリヒ様……」
「ただ……これからは、その優しい香りを、私のためだけに紡いでほしい。……我が儘を言っている自覚はある。だが、君を他の誰の目にも触れさせたくないんだ」
ぽつり、と漏らされた言葉に、彼の深い独占欲が滲んでいた。
けれど、それはリゼットの心を縛るものではなくて、むしろ、この上ない幸福感で満たしていく。必要とされている。道具としてではなく、リゼットという一人の人間として、これ以上ないほどに。
「我が儘なんかじゃありません。……私の香りは、もう、あなただけのものです」
リゼットが小さく微笑んで答えると、ディードリヒの瞳が一気に熱を帯びた。
彼の手がリゼットの後頭部へと回り、ゆっくりと顔が近づいてくる。
触れ合う唇は、驚くほど柔らかくて、熱い。
吸い込まれるような長いキスのあと、ディードリヒは愛おしさを堪えきれないといった風に、リゼットをその広い胸の中へと力強く抱きすくめた。
トントン、と彼の規則正しい心臓の音が、リゼットの耳に心地よく響く。
冷たい石畳に捨てられたあの日の雨は、もう遠い過去の霧の彼方。今のリゼットの世界は、この温かい腕の中と、彼のために紡ぐ優しい香りで、どこまでも満たされていた。




