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潮風の設計図  作者: 水前寺鯉太郎
回帰する潮

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エピローグ:潮風の設計図

エピローグ:潮風の設計図 —— 百年の年輪、光の帰還

影島の灯台が完成してから、さらに十年の月日が流れた。

かつて父・優樹の傍らでその最期を見届けた結衣は今、釜山と日本を繋ぐ「記憶の建築コンサルタント」として、世界中を飛び回っている。しかし、彼女がどんなに多忙を極めても、年に一度、必ず戻ってくる場所があった。それは、父が最期を過ごした小豆島の、あの「名前のないミュージアム」である。

【波音が運ぶ再会】

小豆島の浜辺に立つと、潮風に乗って、かつて父が削り、風が奏でたあの懐かしい「木の音」が聞こえてくる。優樹が車椅子から眺めた若きオリーブの林は、今や立派な森となり、訪れる人々を深い緑で包み込んでいた。

結衣がミュージアムのテラスで潮騒に耳を傾けていると、一人の青年が近づいてきた。かつて優樹に「三本目の足」となる黒檀の杖を授けた名匠、チェ・ジュウォンのひ孫であるチェ・スンウだ。

「結衣さん。今年も、釜山から『松の香り』を運んできました」

スンウが差し出した木箱には、影島の赤松で新しく削り出された、灯台のメンテナンス用パーツが収められていた。結衣はそれを受け取り、目を細めた。

「ありがとう、スンウ君。……不思議ね。あんなに記憶を失うことを恐れていた父も祖母も、私たちが彼らの遺した『手触り』を繋いでいる限り、すぐそばで生きているような気がするわ」

結衣の視線の先には、壁に飾られた一本の古びたアイアンがあった。それは優樹が引退時に愛用していたものだ。グリップには、単なる摩耗ではない、**「誰かが何度もそこを確かめるように触れた跡」**が残っている。それは、記憶を失い、自分が誰か分からなくなった優樹が、最期まで無意識に「自分の居場所」を確かめるために握り続けていた、魂の座標だった。

【身体が覚えている愛】

「結衣さん。影島の灯台でも、同じことが起きています」

スンウは静かに語り始めた。毎日灯台を訪れる、一人の老人の話を。彼は家族の名前も自分の名前も忘れてしまった。しかし、灯台の入り口にある、結衣が置いた「真鍮のティー」にだけは、必ず決まった時間に触れるのだという。そして、一番の笑顔で「ナイスショット」と呟くのだ。

「彼の脳からはゴルフのルールは消えていても、心が感じた『快感』と『光』だけは、筋肉の奥深くに保存されているんです」

結衣は松の木片を手に取り、その香りを深く吸い込んだ。小豆島のオリーブと、釜山の松。それは、かつて美津子が作ったお稲荷さんの「甘み」と「塩気」のように、絶妙な調和で混ざり合っていた。

「……設計図には書けないことが、一番大切なのね」

結衣がノートに新しい、体温を感じさせる曲線のスケッチを始めたその時、釜山のヒョンジュンから一通の至急メッセージが届いた。

『影島の灯台に、信じられない「贈り物」が届いた。至急、戻ってきてほしい。』

【百年前のタイムカプセル】

釜山へ飛んだ結衣を待っていたのは、興奮を隠せない様子のヒョンジュンだった。彼は、解体された影島の古い長屋の壁の中から発見されたという、一束の煤けた和紙を結衣に示した。

それは、第一章の主人公・ハン・ジアンが、自らの死を悟った時に隠した**「初期・影島再建計画書」**の原本であった。しかし、結衣を驚かせたのはその図面ではない。余白にびっしりと書き込まれた、数十年分に及ぶ気象データと光の計算式だった。

「ジアンは、自分が死んだ後、いつ、どの場所に、どんな光が差し込むかを予測していたんです」

ヒョンジュンがその古い図面を、現代の灯台の設計図に重ね合わせた。その瞬間、結衣の背筋に戦慄が走った。優樹が感覚だけで「屋根を抜くべきだ」と決めた場所と、ジアンが百年前、理知の果てに「光を落とすべきだ」と算出した場所が、ミリ単位で一致していたのだ。

時を超えた二人の天才の、目に見えない握手。ジアンの理知ロジックと優樹の感覚センスは、百年の時を経てこの吹き抜けで一つに溶け合っていた。

さらに、図面の裏にはジアンの娘(美津子の母)が書いたと思われるメモが残されていた。

『お父さん、家の中に、お砂糖を一さじ隠しておきました。』

灯台の礎石を調べると、そこには銀色の小さな箱があり、中には影島の砂と、一粒の「金平糖」が入っていた。ジアンは、残された家族の未来が「甘く、優しい場所」であるようにと願っていたのだ。その祈りこそが、この重厚な建築の、たった一つの、けれど決定的な「隠し味」であった。

【消しゴムが遺したもの】

結衣は、ジアンの図面、優樹の真鍮のティー、そして美津子のレシピノートを抱え、灯台の最上階へ登った。眼下には釜山の港が、そして向こう側には小豆島へと続く果てしない海が広がっている。

「私の頭の中には、消しゴムがある」

それは、父・優樹が病を宣告された夜に記した、絶望の言葉だった。しかし結衣は今、その言葉に、百年の物語を紡いだすべての人々の声を重ねて、答えを放つ。

「お父さん。消しゴムはね、何もかもを失わせるためにあったんじゃない。……消された後に残ったその『真っ白な隙間』に、新しい光を差し込ませるためにあったんだね」

ジアンが見つけた垂直の光も、ヨンジが刻んだ魂の溝も、美津子が守り抜いた味の刻印も。すべては絶望という消しゴムが、余計なものを消し去ったからこそ見つけられた、純粋な愛の形だったのだ。

【愛という名の記憶装置】

灯台のふもとでは、今日も人々が木肌に触れ、風を聴いている。結衣は隣に立つスンウに微笑みかけた。

「建築士はね、家を建てるのが仕事じゃないのかもしれない。消しゴムに怯える人の隣に座って、『消えた後にも、こんなに綺麗な空が見えるよ』と教えるための『窓』を作ること。それが、私たちの真の設計図だったのね」

結衣は自分のノートの最後の一ページに、大きな、大きな「円」を描いた。

それは年輪であり、ホールカップであり、お稲荷さんの丸みであり、そして今まさに水平線へと沈みゆく太陽の形であった。

アルツハイマーは記憶を消し去る。けれど、愛されたという確信、誰かのために生きた誇り、共に笑った時の喉の震えは、脳ではなく、この大地と、建物と、受け継がれる血の中に、永遠にアーカイブされている。

「さよなら、お父さん。……そして、おかえりなさい」

結衣の記憶からいつか彼らの顔が薄れる日が来ても、この灯台に触れるたび、父の指の温もりが、祖母の包丁の音が、ジアンの真っ直ぐな背中が、プリズムのように彼女を包み込むだろう。

【大終幕:海を渡る一打】

舞台は再び、小豆島の波打ち際へ。

かつて優樹が練習に明け暮れた場所に、一本のゴルフのピンが立っている。風が吹くと、そのピンがチリンと微かな音を立てる。それは、百年の時をかけて釜山から届いた「アンサー・ソング」であった。

記憶の消しゴムは、物語を終わらせるものではなかった。それは、次の世代がより鮮やかな色で未来を描くための、優しく切ない「準備」に過ぎなかったのだ。

影島の灯台から放たれる光の中に、ジアンが、ヨンジが、美津子が、そして優樹が、誇らしげに立って笑っている。

「……ナイスショット。……いいじんせいだった」

その声は潮風に乗り、今、あなたの心の中にある「設計図」へと届いていく。

(全五章・エピローグ 完結)



この物語は、一人の建築家が影島の丘に抱いた、小さな、けれどあまりに純粋な「理想」から始まりました。

当初は、その一人の女性の挫折と祈りだけで幕を閉じるはずだったこの物語が、気づけば海を越え、世代を越え、百年にわたる長い旅路となりました。それはまるで、住む人の成長に合わせて継ぎ足されていく古い家のように、私自身の筆も、彼らの「生きた証」を求めて何度も増築を繰り返した結果です。

アルツハイマーという、記憶を砂のように奪っていく病を前にして、人は何を残せるのか。

その答えは、脳の中ではなく、私たちが日々触れる木の温もりや、愛する人のために作った料理の味、そして誰かと分かち合った美しい光の記憶の中にこそあると信じています。

記憶の設計図には、完成という文字はありません。

私たちが誰かを想い、その手触りを誰かに託し続ける限り、この物語はあなたの心の中で、これからも静かに建て増しされていくはずです。

最後に、この100年の年輪を最後まで共に辿ってくださった読者の皆様に、心からの感謝を込めて。

あなたの人生という名の「家」が、今日もしなやかに増築され、優しい潮風が吹き抜ける場所でありますように。

ルフナ大賞、吉報を心よりお祈りしております。この「増築」された物語が、選考委員の心に深く、鋭い快音を響かせることを願って!

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