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潮風の設計図  作者: 水前寺鯉太郎
潮風の設計図

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第3話:綻び(ほころび)

病院での宣告から数日。ジアンは周囲の必死の制止を、文字通り力ずくで振り切り、何事もなかったかのように現場に戻っていた。

「うちはプロや。病気なんかに図面は引かせへん。脳みそが少しくらいバグったからって、培ってきた指先が忘れるはずないんや」

朝の冷たい水で顔を洗い、鏡の中の自分にそう言い聞かせる。いつも以上に念入りにヘルメットを被り、顎紐を強く締める。そうすることで、こぼれ落ちそうになる自分をなんとか繋ぎ止めているようだった。

現場に立つジアンは、これまで以上に厳しく、苛烈に職人たちを怒鳴りつけた。しかし、その虚勢は薄氷のように脆く、少しずつ、しかし確実に崩れ去ろうとしていた。

【異変:失われた「感覚」】

その日の午前中、現場事務所で行われた定例会議でのことだ。

ジアンが工程の進捗について指示を出そうと、大型の図面を机いっぱいに広げた。いつもなら、彼女の頭の中には図面の立体像が完璧に立ち上がり、次から次へと淀みなく言葉が溢れ出すはずだった。

だが、青い紙の上に引かれた白い線を見た瞬間、頭の中に強烈なノイズが走った。

「……ここの、ええっと、この……柱の……横にある……」

言葉が喉の奥でつかえる。柱を支える補強材の名前、接合部の詳細――。何千回、何万回と口にしてきたはずの専門用語が、霧の中に消えていく。

「お嬢様? はりの接合部の、ボルト締めのことですか?」

ベテランの職人に先を越され、ジアンの顔が屈辱で一気に朱に染まる。

「わかっとるわ! 今、言おうとしただけや! 横から口挟まんといて!」

怒鳴り散らして場を収めたが、心臓の鼓動が耳元でうるさく鳴り響く。

言葉が出てこない。専門用語という、彼女が自分を「特別な存在」たらしめるために愛用してきた最高の「武器」が、砂のように手の中から滑り落ちていく。図面をなぞる指先が、正解を見失って彷徨っていた。

【決定的ミス:狂った計算】

異変は言葉だけにとどまらなかった。

ある午後、事務所にジアンの同僚である若い設計士が、顔を強張らせて駆け込んできた。

「ジアンさん! これ、チェックしましたか? さっき届いた鉄筋の発注数……桁が一つ違います! これじゃあ現場が止まるどころか、資材置き場に入り切りませんよ!」

ジアンは自分の耳を疑った。

「何を言うてるんや。うちが計算を間違えるはずないやろ。あんたの読み間違いや」

しかし、手渡された発注書と、自分の手元のメモを突き合わせた瞬間、ジアンは息が止まった。

そこには、自分でも判別できないほどひどく歪んだ数字が、のたうち回るように並んでいた。

『800』と書いたつもりだった場所には、震えた筆跡で『8000』に近い数字が殴り書きされている。

「……嘘や。うちが、こんな……」

「ジアンさん、最近本当におかしいですよ。顔色も悪いし、指示も支離滅裂な時がある。一度ちゃんと休んだ方がええんちゃいますか?」

周囲の心配そうな、それでいて「腫れ物に触るような」視線。プライドの高いジアンには、その優しさが自分を無能だとバカにする嘲笑にしか聞こえなかった。

「うるさい! 誰が休むか! うちがいないとこの現場は回らへんのや! あんたらに何がわかる! たかが一回書き間違えただけやろ!」

彼女はメモを引き裂き、嵐のように事務所を飛び出した。

外は眩しいほどの西日が差し込んでいたが、ジアンの視界は、まるで古いフィルムが焼けるように端の方から黒ずんでいた。

【ジュウォンの静かな観察】

鉄骨の陰で、荒い息を吐きながら立ち尽くすジアン。

その騒ぎを遠くから静かに見ていたチェ・ジュウォンは、手に持っていたタバコを安全靴の底でゆっくりと消すと、彼女の方へ歩み寄った。

彼は他の連中のように怒鳴りもしなければ、腫れ物に触るような同情もしなかった。

ただ、ジアンが先ほど震える手で落としてしまったコンベックス(メジャー)を拾い上げると、彼女の手の中に無言で、ぐいと握らせた。

「ハン設計士。お前、さっき目盛りを逆から読んどったぞ」

「……!」

ジアンは弾かれたように自分の手元を見た。ジュウォンの言う通りだった。

「無理すんな、休め……なんてことは言わん。だがな、職人が自分の道具を信じられんようになったら、そこが引き際やぞ」

ジュウォンの言葉は、どんな罵倒よりも鋭い刃物となって、ジアンの胸の最も柔らかい場所を突き刺した。

「……引き際なんてない。うちは死ぬまで、死んでも設計士や。ここから追い出されるくらいなら、コンクリートと一緒に埋めてもらった方がマシやわ」

「なら、俺を使え」

「え……?」

予想外の言葉に、ジアンは顔を上げた。ジュウォンは少しだけ声を和らげ、ジアンの瞳を真っすぐに見つめていた。

「お前の頭の中にある図面が、霧がかかってボヤけとるんなら、俺がこの現場でそれを形にしてやる。俺の腕を信じろ。お前の目が曇っても、俺の指先がその設計を覚えとる」

ジュウォンは無骨な手で、ジアンのヘルメットのズレを無造作に直した。

「一人で消しゴムと戦うな。建物は一人で建つんか? 現場はチームやろ。……俺に、お前の『脳』の一部を貸してみろ」

その言葉に、ジアンは初めて言葉を失った。

自分を否定するのではなく、欠けた部分を補おうとする男の不器用な誠実さ。

【刻まれる最後の防波堤】

夕暮れの現場。職人たちが引き上げ、静寂が戻った鉄骨の森の中で、ジアンは一人残っていた。

ジュウォンに言われた通り、自分のコンベックスをじっと見つめる。

数字が、時折波打って見える。焦点が合わない。

(私は、消えていくのか?)

恐怖が、足元から冷気のようにせり上がってくる。

彼女はポケットから油性のマジックを取り出すと、震える左手を広げ、その手の甲に、自分でも驚くほど筆圧を込めて、大きく、太く書き込んだ。

『私はハン・ジアン。一級建築士。』

忘れたくない。

この感覚も、悔しさも、そしてこの現場の匂いも。

消しゴムで人生のすべてを消し去られる前に、せめてこの皮膚の上にだけは、自分の真実を刻んでおきたかった。

マジックの刺激臭が鼻を突く。

その青臭い文字が、彼女にとっての最後の防波堤、崩れゆく王国に残された最後の一本の杭だった。

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