第12話:再検査、そして沈黙の車内
釜山大学病院の廊下。
かつて「職人のプライド」を鋭利な刃物のように剥き出しにし、若年性アルツハイマーの宣告を下した医師に「うちの脳の構造計算をやり直せ!」と食ってかかったハン・ジアンは、もうそこにはいなかった。
今の彼女は、隣に座るチェ・ジュウォンの、木の屑が少しだけ残った作業着の袖を、迷子の子どものようにぎゅっと握りしめている。周囲を行き交う白衣の群れや、無機質な呼び出しチャイムの音に怯えるように、彼女は視線を足元のタイルに落としていた。
「ジアン、大丈夫や。ちょっと先生と話すだけやからな。すぐに終わる」
「……うん。でも、あの先生、うちの設計図にケチつけるから嫌いやわ。あんなに一生懸命引いたのに……」
ジアンは、モニターに映し出される自分の脳の断層写真を、まだ「修正の必要な設計図」だと思い込んでいる。しかし、その声には以前のような、職人としての張り詰めた覇気はない。ただ、大切な宝物を否定された子どものような、弱々しい寂しさが漂っていた。
【診察室:広がる空白】
「……進行が予想以上に速いですね」
診察室の奥。医師の言葉が、冬の夜の海風のように冷たく室内に響く。
モニターに映し出された、ジアンの脳。かつて緻密な構造計算を司り、数ミリの狂いも許さなかった領域は、数ヶ月前よりもさらに深い「影」に覆われていた。それは、都市の灯りが一つ、また一つと消えていき、やがて完全な闇に飲み込まれていく夜景を連想させた。
「ジアンさん。……一度、ご自身の名前をここに書いてみてもらえますか?」
医師が、真っ白なA4の紙を一欄、机の上に置いた。
ジアンはこわごわと、しかしどこか懐かしそうに鉛筆を握る。数日前まで、影島の家で、ジュウォンが見守る中で何度も、何百回も練習したはずの名前。手にその感触を叩き込み、脳ではなく指先に記憶させたはずの文字。
しかし、彼女の手が紙の上に刻んだのは、意味を持つ「文字」ではなかった。
それは、ひどく震え、角が歪んだ、**「ただの無機質な四角形」**の連なりだった。
「……あれ? おかしいな。……こう、線を引いて、ここを止めて……。なんで、繋がらへんの?」
ジアンは必死に紙に鉛筆を叩きつける。芯が折れるほどの、凄まじい筆圧。
彼女にとって、文字はすでにコミュニケーションの道具ではなくなっていた。それは出口のない「迷路」であり、一度踏み込んだら二度と正解へは辿り着けない、欠陥だらけの迷宮だった。
ジュウォンは、見ているに忍びなくなり、横から彼女の細い手を取り、そっと鉛筆を置かせた。
「もうええ。もうええよ、ジアン。……よう頑張ったな」
ジアンは折れた鉛筆の芯を見つめ、何かが決定的に壊れてしまったことを悟ったように、ぽつりと「……ごめんな」と呟いた。その声は、かつて現場を指揮していた凛とした声の残響でしかなかった。
【帰り道:広安大橋の夕暮れ】
病院を出た時、釜山の街は深いオレンジ色に包まれていた。
ジュウォンの古い軽トラックは、エンジン音を響かせながら、海の上を走る巨大な吊り橋、広安大橋に差し掛かっていた。
右手に広がるのは、暮れなずむ海。左手には、宝石を散りばめたように瞬き始めた高層ビル群の灯り。
ジアンは助手席の窓に額を押し当て、流れていく景色を、初めて世界を見た子どものような瞳で眺めていた。
「なあ、ジュウォンさん。あの橋、綺麗やね。誰が作ったんやろ。あんなに高いところに、どうやってあんな重いもん吊ったんかな」
「……お前みたいな、腕のいい連中が集まって作ったんや。計算して、鉄骨を運んで、命がけで繋いでな。釜山の、俺たちの自慢の橋やぞ」
「ふーん……。うちも、あんな大きいもん、作ってみたかったな。きっと、かっこええやろうね」
自分がかつて、その建築業界の第一線で戦い、幾つものスカイラインを描き直してきた「ハン・ジアン」という建築士であったことさえ、彼女の記憶からは綺麗に剥がれ落ちていた。
「ジュウォンさん。……うちな、さっきの先生が言ったこと、半分くらい分かったわ。うちの頭の中、もうすぐ全部真っ白になるんやね。設計図を消しゴムで消すみたいに、全部真っ新になってしまうんやね」
ジアンがぽつりと、静かな海の青さを写したような瞳で呟いた。
「……そんなことない。消しゴムなんて使わせへん。俺が上書きしてやる。毎日、毎日、新しい色を塗って、新しい思い出を書き込んでやる。お前の頭がパンクするくらいな」
「ううん。消しゴムの方が、描くスピードよりずっと速いんよ。……なあ、ジュウォンさん。全部消えたら、うちはどこに行くん? 図面がない建物は、もう価値がないんかな。……壊されるしかないんかな」
ジュウォンはハンドルを握る手に、指の節が白くなるほど力を込めた。前を見つめたまま、溢れそうになる熱いものを喉の奥へ押し込む。
「壊させへん。誰が壊させるか。……お前という建物はな、世界に一つだけの、最高の傑作や。俺が一生、メンテナンスし続けたる。雨が漏ったら瓦を直すし、壁が剥げたら俺が新しい色を塗り直す。建具が歪んだら、削って、またスムーズに開くようにしてやる」
ジュウォンは一度、鼻をすすって続けた。
「たとえお前が、自分の名前を忘れても、俺の名前を忘れても……。俺が毎日、お前の前で『ジアン』って呼び続ければ、そこがお前の居場所や。俺が、お前の記憶の代わりになったる。……だから、壊れるなんて二度と言うな」
ジアンは少し驚いたようにジュウォンを見つめ、やがて小さく、幸せそうに笑って、彼の分厚い肩に頭を預けた。
「……職人さんって、ほんまに頑固やね。理屈やなくて、力技で直そうとするんやから」
【消えないインク】
トラックが影島の小さな家の前に着き、車を降りる際。
ジアンはふと、自分の左手の甲を見た。
そこには、マジックで書かれ、何度も手を洗ったせいでうっすらと、けれど確かに残っている青い文字があった。
『ジュウォンを信じろ』
それは、まだ彼女が自分の言葉を持っていた数日前に、未来の自分へ向けて放った、最後にして最大の「設計図」だった。
彼女はそれを、誰にも、そしてジュウォンにさえも見られないように、そっとカーディガンの袖で隠した。
たとえ言葉が消えても、この「信じる」という感覚の温かさだけは、彼女の皮膚が、細胞が、最後の最後まで覚えているはずだった。
「ジアン、入るぞ。飯にしよう」
「うん。……ジュウォンさん、今日のご飯、何?」
「お前が好きな、テンジャンチゲや。おかずもいっぱいあるぞ」
「やった。うち、お腹ぺこぺこやわ」
二人は、夕闇に溶け込む影島の家の中へと、吸い込まれるように入っていった。
明日には、また何かが失われているかもしれない。
けれど、この家の「メンテナンス」は、永遠に終わることはない。




