第1話:設計図の空白
釜山、影島の急勾配に建つ工事現場。
「おっちゃん!そこの鉄筋、結束が甘い!やり直しや!」
ヘルメットを被り、腰にコンベックス(メジャー)を下げたハン・ジアンの声が響く。彼女は建設会社の令嬢だが、現場では誰よりも泥臭い「一級建築士」だ。
「ジアンお嬢様、そんな数ミリのズレ、誰も気づきまへんて」
苦笑いするベテラン職人に、ジアンは愛用の鉛筆を耳に挟み、鋭い視線を向けた。
「建物は嘘つかへん。基礎が歪んだら、何十年後かに誰かが泣くことになるんや。うちが引いた線に妥協は許さへん」
彼女にとって、図面は世界を支配するルールだった。構造計算通りに柱が立ち、設計通りに空間が切り取られる。その秩序の中にいる時だけ、ジアンは呼吸ができた。
仕事が終わり、日はとっくに落ちていた。
ジアンはいつものように南浦洞へと向かう地下鉄に揺られていた。カバンには明日チェックする予定の新プロジェクトの青図が入っている。
ガタン、ゴトン。
規則的な振動が心地よく、ジアンは軽く目を閉じた。
(明日は、あのエントランスの収まりを確認して……それから……)
「次は、中央、中央駅です」
車内放送に弾かれたように目を開ける。ジアンは立ち上がり、開いたドアからホームへ降り立った。
だが、その瞬間。
「……え?」
足元がふわふわと浮き上がるような感覚に襲われた。
見慣れたはずのタイルの模様、出口を示す黄色い看板、天井を走る配管のライン。
それらが、突如として**「意味を持たない図形の塊」**に変わった。
「ここ……どこや?」
ジアンは周囲を見渡す。毎日通っている、自分の庭のような場所だ。なのに、どちらに行けば改札があるのか、自分が今どの方向に進んでいるのか、空間の把握能力が砂の城のように崩れていく。
「嘘やろ。中央駅やんな? 構造は……ええっと、1番出口は……」
必死に脳内の「地図」を広げようとするが、そこには真っ白な空白が広がっていた。冷たい汗が背中を伝う。
彼女は震える手でカバンから図面を取り出した。プロとして、これさえあれば自分の位置がわかるはずだ。
しかし、広げた紙に並ぶ線と数字は、ただの「落書き」のようにしか見えなかった。
「なんで……読めへんの……」
職人としての誇り、積み上げてきた知識。それらが、目に見えない巨大な「消しゴム」でゴシゴシと消されていくような恐怖。ジアンはホームのベンチに座り込み、図面ケースを強く、壊れるほど抱きしめた。
その時、一人の男が彼女の前で足を止めた。
作業着のポケットに手を突っ込み、ぶっきらぼうにジアンを見下ろしている。
現場で「狂犬」と恐れられる荒くれ者の大工、チェ・ジュウォンだった。
「おい、ハン設計士。こんなところで何ボケっとしとるんや。図面と心中でもする気か?」
聞き慣れた野太い声。ジアンはゆっくりと顔を上げた。
ジュウォンの顔を見て、彼女の瞳から堰を切ったように涙が溢れ出した。
「ジュウォン……さん……。うち、帰り道が……わからんくなってしもた」
強気で鳴らした「釜山の女建築士」が、子供のように震えている。
その異変に、ジュウォンは言葉を失い、ただ彼女の震える肩をじっと見つめていた。
港から吹き抜ける夜の潮風が、二人の間を通り過ぎていった。
記憶の空白シリーズ第二弾です。舞台は韓国にしてみました。
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