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64 凛として静かに美しく

回想はここまでです。

次回からまた戻ります。

 

「近寄らないでもらえるかしら? 暑苦しいのよあなたは。それと少々汗臭いわ」

「はぁ? 戦う男の匂いを臭いとか言うんじゃねえよ!」


 汗とワセリンが混じったボクサー特有の香り。慣れているはずなのに文句を言うのも愛情表現である。


 明に苦言を呈した女性の名前は雪平静ゆきひらしずか。腰まで流れる黒絹のような艶のある髪、雪のように白い肌は透明感があり、美しい黒髪がより映える。長い睫毛に覆われた大きな瞳は、色素が薄いのか陽光を浴びると明るい茶色を覗かせる。

 まるで人形のような美しさに、慣れているはずの明でさえ気を抜くと見惚れてしまう。


 明と静は世間一般で言うところの幼馴染みであり、一緒の病院で産まれ、一緒の幼稚園で遊び、一緒の学校で学んだ。小中高と全て一緒だったため、腐れ縁という表現が適当である。


 幼馴染みとはいえ男と女。

 いずれは離れると思っていた周囲の予想は良い意味で裏切られた。共に成長していく過程で、静は明に強く惹かれた。


 自身の想いを自覚してからは早かった。すぐに告白して明もこれを了承。お互いの事をよく理解しているため、喧嘩はするものの別れるという選択肢はあり得なかった。


 倦怠期など体験する間もなく、気が付いたら婚約者という立ち位置へと変化していた。互いの両親も手放しで祝福してくれて、一直線に幸せへと向かうものと誰もが思っていた。


 その幸せに陰りが見えたのは四ヶ月前。


 体調不調を訴えた静は病院にて精密検査を受けたのだが……思いも寄らぬ病気を患っていた。



 病名は膵臓癌。



 発見が遅れた事、若いため進行が早い事。診断と余命宣告が同時になされてしまった。


 当然ながら……静の両親は泣き崩れてしまう。「何が起こったのか分からない」と混乱するのは明も同様で、事の重大さを理解してしまうと悲しみに暮れた。


 そんな中で静だけは取り乱す事なく、冷静に残された時間どうするのかと思考を切り替える。


(手術もダメ、抗がん剤も気休めの延命……ふふっ、見事に詰んでいるのね)


「緩和ケアがいいわ。抗がん剤はいらない」


 涙一つ見せずに発したその一言に、周囲の者は度肝を抜かれた。

 生を諦めると、覚悟はできていると、そう宣言したのだ。一番辛いはずの本人が一番強かった。


 そう言われてしまうと明だって気落ちしている訳にはいかない。自身を鼓舞して立ち上がると、いつも通りに静に接する。


 虚勢だって構わない――。


 静が弱音を吐かないなら、自分が悲しむのはあまりに情けない。折れそうな心を無理矢理立て直す。





 ――――――――



 病院ではなく、なるべく自宅で過ごしたいという静の意志を尊重して、基本的には静は自宅でゆったりとした時間を過ごしていた。

 明も常に静の傍にいるのではなく、しっかりとジムにも通っていた。いつもと変わらない日々、それこそが静の求めるものだと明も理解している。


「喜べ凡人。タイトルマッチが決まったぞ」

「……え? 本当!?」

「あぁ! 九ヶ月後だ!」

「九ヶ月......」


 その頃にはもう静はこの世にいないかもしれない。

 だが明は敢えてそれを言った。


「おまえはもういないかもしれないな」

「……そうね。ふふっ!! 明らしいわね。まったくもう」


 気を遣わなくていい間柄を誇張するような明の態度に、静は堪えきれずに声を出して笑う。


 思えばずっとこんな日々であった。明といると病気などバカらしくなるような……。

 嘘をつくのが絶望的に下手な明は、静に対して真正面から誠実に向き合った。

 

 静はそんな不器用な男の事を考えると、涙より先に笑顔が零れてくるのだ。


 だからこれでいいと思った。

 これがいいと思った。


 だからこそ伝えなくてはならない――。


「明……大好きよ。あなたに話しておかなければいけない事があるの。聞いてくれるかしら?」

「おう。話せ」


 明の瞳を見ていると静は胸が高鳴る。

 病気だからという訳ではなくて、強い意志が感じられるその瞳が好きだった。目をそらさずに真っ直ぐに見つめてくる……そんなところが堪らなく好きだった。


「私は手紙とかそういうの得意じゃないから……今のうちに伝えておくわ。ねぇ明、あなたは何のためにボクシングをやっているの?」

「そんな事決まってるだろうが。最強の証明! 自分のためだ」

「ふふっ、そうよね。あなたならそう言うわよね」


 明はずっとそうだった。

 ひたすら全力で目標に向かって走っていく。脇目も振らずに進んでいくその様が静にはキラキラと輝いて見えた。だからこそ強く惹かれたし想いを伝えた。


(でも、せっかく恋人関係になれたのだから、少しは構ってくれてもいいじゃない?)


「私が死んだら、私のためにも戦いなさい」

「は?」

「だってずるいじゃない。あなただけ煌めくスポットライトの下でいい気分に浸るのは」

「……」

「あなたは全てを抱え込んで世界の頂点に立ちなさい。自分のために、家族のために、そして愛しい私のために」

「随分と横暴だな」

「うるさいわね。文句あるの?」

「…………ねえよ。畜生が!」


「それでいいのよ」と話し掛ける静は普段通りの綺麗な笑顔で、その有無を言わさぬ迫力に明も苦笑しながら頭を掻く。


「私のためにあなたが戦ってくれたなら……私はそこにいるわきっと。仕方ないから力を分けてあげてもいいわよ」

「いらねえよ。余計なお世話だ」

「まったく……素直じゃないんだから。…………あなたは欲張りなボクサーになりなさい。何かを犠牲にしないと強くなれない? そんなのは弱者の言い訳だわ。明は違うでしょう?」

「……チッ。なんて女だ」

「しっかりと記憶に焼き付けなさい。雪平静という人間を」


 凛としたその姿は、本当に病人なのか疑わしいほどであった。

 もはや明も笑うしかない。だがこの姿こそが昔から見てきた雪平静という人間なのだ。


 死に直面するとその人の本性が出る、などと言ったりもする。もしそうであれば、静ほど強く美しい者はなかなかいないのではないだろうか。自分が同じ状況になった時、このような振る舞いをできるのだろうか。そんな事を考えてしまう。


(いや、俺が仮に同じ状況になったら……おまえと同じように死んでやるよ。笑いながら逝ってやる! てめえに負けるのは御免だ)


「約束してやるよ! てめえの心も連れて行く、世界のリングへ!」

「そうこなくちゃね。負けちゃ嫌よ? 化けて出るからね」

「はっ! 俺が負けるかよ! 天童明だぞ?」


 自信満々にそう宣言する明は、立ち上がると静の胸に握り拳を当てる。


「なあに? えっち」

「抱き合うってのも照れ臭えからな……これで許せ。ベルト強奪してくるからよ、あの世で待っとけ」

「ふふっ。期待しているわ」





 ――三ヶ月後。




 ひらひらと雪が舞う季節になった。


 地面に落ちるふわふわとした雪の結晶は、音もなく静かに溶けて地へ還っていく。その儚くも綺麗な様を見ていると「まるで誰かさんのようだな」と明は思う。


 静は眠るように旅立った。


 その死に様は綺麗なもので、「幸せだった」とでも言いたいような笑顔を浮かべながら、静かに息を引き取った。


 静の両親、そして明の両親も、泣き崩れてその場から動けなかった。


 明も泣けるなら泣きたかったが……涙が出てこないのだ。覚悟していたはずだったのに、実際にその姿を見ると頭の中が真っ白になった。





 それから三日間、明は部屋に閉じこもった。

 静との写真や、誕生日に貰ったマフラー。愛していたその人との思い出の品を前に、ただ呆然としていた。


 身体に力が入らない。

 拳が上がらない。


 三日間寝ずに過ごした明は、ついには限界を迎え半ば気絶するように眠りに落ちた。



 ――夢の中で声が鳴り響く。



 聞き慣れた女性の声は、やけに透き通ってよく聞こえた。


『立ちなさい!! 休憩は終わりよ!!』


 その声に反応して明は勢いよく起き上がった。周りをキョロキョロと見渡しても静の姿はない。


「…………」


 目を強く閉じ眉間に皺を寄せた。そのまま一時間ほどだろうか、気持ちを落ち着けるように瞑想する。


 ゆっくりと開いた目に力が宿る。身体にも拳にも力が戻った。


(…………そうだったな。約束したよな馬鹿野郎が!!)


 自らの顔を強めに殴ると、唇が切れて血が滴り落ちた。


「痛え!! まっ、これで許せよ。さてと……とりあえず半年後の日本タイトル。サクッと獲りに行こうぜ静!!」


 心の中で思い浮かべた静は、弾けるような笑顔を見せた気がした。


 この半年後、天童明はフェザー級日本タイトルを獲得。僅か1R20秒での王座交代劇は、世間に鮮烈な印象を与えた。






 ◇ ◇ ◇




 ――それから数年後。


 舞台はラスベガス。


 敵地に意気揚々と乗り込んだ最強の日本人は、不敵な笑みを浮かべたままその力を見せつける。


 2R25秒。

 相手の意識を刈り取る完璧なKO劇。

 天童明は見事にWBAタイトルを獲得。


 観客席には静の両親、手に持っているのは静の写真だ。その隣には明の両親が座っており、瞳は「天童明」と書かれたタオルを広げてはしゃいでいる。


 現地のアナウンサーからのインタビューが始まった。通訳付きなので若干緊張している。


「まずは! おめでとうございます!! 今の気持ちを教えていただけますか!?」

「……その前に。個人的にちょっと話していいですか?」

「はい?」


 困惑するアナウンサーにマイクを返すと観客席を向く。視線の先には静の写真。


 腰に巻いているベルトを外すと、片手で上へと持ち上げる。


 大きく息を吸うと大声で話し掛けた。


「おら!! 約束のベルトだ静!! これで文句ねえだろうが!!」


 静の両親は下を向いて涙を流していた。

 だがきっと静は泣いてなどいないだろう。


『おめでとう!! でも当然よ!!』


 割れるような大歓声の中、明にははっきりとそう聞こえた。



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[良い点] ここ何度見ても泣けるズルい…
[一言] やっぱここ泣けるな
[一言] 何度読んでもここは泣けるわ……
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