65 トンネルを抜けた先に
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瞳が語った明と静の過去。
楓には衝撃的であった。あの明でさえ一人ではなかった、鬼のような強さを誇ったフェザー級最強の男は、一人の女性を愛していた。自分のためだけじゃなく、その拳に様々な人の想いを乗せて必死に振っていた。そうやって世界の頂に立ち、結局は無敗のままリングを去った。
自分に同じような事ができるのだろうか、楓はどうしてもそのように考えてしまう。
愛する女性を喪い、それでもすぐに立ち上がって走り出す――。
言葉にするだけでもずっしりと押し潰されそうな重圧は、想像するだけでも辛いのは言うまでもなかった。
だが……その事実は楓の心の中に確実に波風を立てていた。胸がざわつくのは勘違いなどではなく、自分が進むべき方向が定まっていくのを感じる。少しずつ視界が開けていく。
仏壇の前で明達と向かい合う。
飾ってある写真には、明と静の二人が仲睦まじい様子で写っていた。二人共短すぎる生涯であったものの、その人生は濃密なものであったに違いない。
楓と夕月は姿勢を正し仏壇の前で手を合わせる。
目を閉じると仄かに感じる線香の匂いは、やはり明には似合わないというか……辛気臭い雰囲気はどうにも慣れそうにない。
「……綺麗な……人」
「おっさんには勿体無いな」
「…………酷い」
「ふふ、いいのよ」と優しい声色で瞳が話し掛けてくる。
それにしてもやはり海に散骨したのは良かったのかもしれない。天童明という男は、狭い場所でじっとしていられるほど気が長くない。この仏壇ですら一時滞在所、お盆期間に魂が帰ってくる仮宿といったところか。
仏壇が設置されている部屋は、現役時代に明が使っていたグローブやパンツ、シューズなどが所狭しと並べられている。辛気臭い雰囲気を薄めるような配慮は、瞳が楓と同じように明という男を理解しているからであろう。逆に言うと、この部屋には仏壇が似つかわしくない異物にさえ思えてくる。
沈黙しそんな事を考えていると、さすがに瞳も察したようでクスッと小さく笑う。
「賑やかな部屋でしょう?」
「はい。でもそれでいいと俺も思います」
瞳が明をどれだけ愛していたのかが伝わってくる。夕月もどうやらそれを感じ取ったようで、楽しそうに部屋の中を眺めている。
「明はね。静さんが亡くなってから更に強くなったわ。俺は全てを掴み取る! ってね」
「ボクサーは欲張り、ですか」
「そうよ。それとね……優しくなった。他者を寄せ付けないような雰囲気は徐々になりを潜めて、周りに人が増えていったわ」
「…………」
「今の楓くんのような雰囲気ね。でも、だからこそあなたは悩んでいるのでしょう? 恋人ができて、友人が増えて、心が緩んだように感じる。だから自分は弱くなったんだと錯覚する」
「錯覚……ですか」
「えぇ、そう錯覚よ。逆なのよ、だからこそあなたはもっと強くなれるはずなの。やっぱりあなたと明は同じね……全てを抱えたまま頂点に立てるはずよ」
自分のために、家族のために、友人のために、そして夕月のために……。全てを抱えて強くなれと瞳は諭してくる。
「俺は、それができるんでしょうか?」
「あなたの気持ち次第よ。わかるでしょう?」
「…………」
「明でさえ驚くような才能、器の大きさは十分よ。明が悔しがるぐらい強くなりなさい」
「強く……」
心の中の白い靄が晴れていく――。
身体に、拳に力が入る。
身体の最深部から何か熱いものが込み上げてきて、今にも爆発しそうだ。ミシミシと握った拳が軋んでいる。
「俺はこれからも自分のために戦います」
「そう」
「正直全てを抱える自信はまだありません。俺はずっとそうやって走ってきたので。ただ……」
悔しい事に天童明という男をカッコいいと思ってしまった。不覚にも少しだけ憧れてしまった。
隣の夕月に視線を移す。
きょとんとした様子で不思議そうに楓を見つめている。その小さな頭に手を乗せてぐしゃぐしゃと撫で回すと、最初は驚いていた夕月も目を閉じて気持ち良さそうに身を委ねてくる。
「……こいつが笑っていられるように、そんな自分になれたらと思います。手離す気もありませんし、わがままかもしれませんがそれが今の結論です」
「いいのよそれで。方向さえ定まってしまえばあなたは後は強くなるだけだわ。徐々にでいいの。周囲の大事な人達があなたを変えてくれるはず。わがままなボクサー……ふふっ! 実に結構な事ね」
上機嫌にそう話す瞳は、その楓の姿に昔の明を重ねている。楓にその事は伝えないが「きっとこの子は強くなる」と心の中で呟いた。
姿形は違えど、真っ直ぐに見つめてくる強い瞳はやはり似ている。もう一人の息子と話しているような気分になり、ついついお節介で内面まで踏み込んでしまった。瞳にとってはとても懐かしい感覚で、気を抜くと涙を零しそうなほど嬉しかった。
「あなたの試合、楽しみにしているわ! 私にもう一度世界のベルトを見せて頂戴」
「さりげなくプレッシャーをかけるんですね」
「重圧に押し潰されるようなタマじゃないでしょう?」
「俺は……必ずベルトを獲ります。道を塞ぐものは全て叩き潰して進みます。夕月や、皆が誇れるような俺になりたいと思います」
「えぇ。期待しているわ」
気が付けば迷いは消えていた。
やるべき事が定まったならば進むだけだ。
思い返せば、駿河慧に何を言われようが関係ない事だったのだ。たとえ一方的にやられたとしても、立ち上がればいいだけの話だった。そして立ち上がる事ができたのなら……。
(試合では肋骨全てをへし折ってやるよ! 泣くまで殴ってやるからな……覚悟しやがれ!!)
人生初の挫折を経験した楓は「慧、次はおまえが挫折する番だ」とリベンジへと闘志を燃やす。折れそうだった心は、立ち直ると以前よりずっと強くなった。
しなやかに強くなった心は決して折れたりしないだろう。
神代楓は再び走り出した。
以前よりもずっと速く、力強く。
◇ ◇ ◇
「お邪魔しました」
「……お邪魔……しました」
「また遊びに来てね。私は大歓迎だから」
「試合決まったら連絡します」
「楽しみにしているわ!」
二人揃って小さく頭を下げるとその場を後にした。二人の姿が見えなくなるまで瞳は手を振っていた。
「…………来て……良かったね」
「あぁ」
短く一言だけ返すと、何も言わずに夕月の手を握る。
「……楓?」
「嫌か?」
「……んーん……びっくりした……だけ…………嬉しい」
所謂恋人繋ぎというやつだ。夕月から要求してくることは日常茶飯事であるが、楓からこうして指を絡めるのは初めての事であった。夕月は目を見開くと熱っぽい視線を向けてくる。
明と静の話を聞いたからだろうか。
大事にしたいと……強くそう思った。
掌を通して伝わってくる体温は生きている証だ。
あの時、あの場所で、手を伸ばしてよかったと思う。間に合って良かったと本気で思う。
「夕月。自殺はするな」
「…………うんっ!」
夕月はもうそんな事はしないと理解できているが、言わずにはいられなかった。
一緒にいられるのは当たり前の事ではなくて、お互いが求め合って初めて成り立つのだろう。だから夕月をもっと大事にして、そして自分からも求めようと思った。
暑さなど全く気にしない楓の様子に、気持ちが抑え切れなくなった夕月は大事そうに楓の腕を抱えた。
べったりとくっつく美少女の表情はとても幸せそうで、だけど少しだけ目が潤んでいて泣きたいようにも見えた。きっとそれは嬉しさからくるものなのだろう。楓の瞳にはそう映った。
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