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52 3度目のそれは突然に

 

 街中の喧騒とはまた違った賑わいを間近で見ていると、やはり海に来ているのだなぁという実感が湧いてくる。

 人混みに嫌気が差していたのは無論そうなのだが、今はそれほど鬱陶しいとは感じない。夕月との関係を暴露できた解放感のようのようなものが手伝ったのかもしれない。


 当然の事なのだが、よく見ると皆が笑顔なのだ。その中に交ざっていると、如何に楓といえど気持ちも明るくなるというものだ。夏の海の不思議なところで、自然と気持ちも明るく前向きになる気がする。


 とはいえやはり楓は同年代と比べると少々特殊である。上がった気分で考えるのは砂浜を利用したトレーニング法など、やはりボクシング絡みに偏ってしまう。



 例えば砂浜ダッシュ。



 平坦な道をただ走るより遥かに辛そうである。不安定な足場で全力で走ると、どれ程脚に負担がかかるのだろうか、どれ程スタミナを消費するのだろうか。そんな事を延々と考えてしまう。



 例えば海流に逆らっての全力遊泳。



 プールなどとは比べものにならない負担がかかるであろう。海水なので真水よりは浮力が働くとはいえ、その抵抗は考えているよりずっと大きいはずだ。


 日常から遠ざかった環境に身を置くと、どうしてもそういった練習法を考えてしまう。


 簡潔に言うと、楓は今物凄く身体を動かしたい。

 考えるだけでキツそうな練習法は、ボクサーのやる気に火をつけたようだ。


 妙にそわそわしている楓の姿に、夕月は少し呆れたように腕を引っ張る。


「…………だめ」

「あ? 何がだよ?」

「……練習……したいって…………思ってる」

「……チッ」


 見透かしたような大きな瞳には迷いが無い。一緒に過ごしているうちに、お互いの考えがある程度読めるようになってしまった。便利なようであっても場面によっては都合が悪いこともある。まさに今がその状況だ。


 譲るつもりも無さそうなので、今回は楓が折れざるを得ない。不本意ではあるが、今日の目的はあくまで2人の関係のお披露目だ。そこは楓自身も認識できている。


 諦めたように視線を上に移すと吸い込まれそうな青色。不純物の無い綺麗な青空を見ていると、力の無い笑みが零れる。


 流されるしかないのだ。


 火の付いた身体と心は急激に冷えていき、ついには吹き消えた。


「はぁ……わかったよ!! ったく!」

「…………うむ」


 分かればいいの、と言いたそうな夕月を見て顔がピクピクと引き攣るのを感じる。


 2人で歩いていると相変わらず向けられる視線の数は多く、そのほとんどが夕月目当てなのだろう。だが中には楓に向けた視線も多く、その鍛えられた身体は注目を集めている。

 鋭い目つきは野性味のあるワイルドさとして、不機嫌そうな態度はクールなイケメンとして。都合良く変換されて女性客の目に映る。これも海の力なのだろうか。


 だが声を掛けてくる者は皆無である。楓と夕月の間には付け入る隙が見当たらないようで、見つめるだけであとは諦めてしまうようだ。幸せで仕方無いといった夕月の態度は否応なく周りの者に悟らせてしまう。


 そんなこんなで2人は割と平和に砂浜を歩いている。前方にはクラスメイト等の集団、その中には陽と響も含まれているようだ。


「それにしてもよ。海に来たのはいいけどやる事ねえよな」


 思わず漏れた本音に隣の少女はクスクスと笑っている。


「……じゃあ……教えて」

「何をだ?」

「…………泳ぎ方」

「あぁそうか。おまえ泳げないんだっけ? そうだな、特にやる事無いしいいぞ」


 こくんと頷くと拳を握りしめている。夕月はやる気だ。


 何もする事が無かったら最悪黙って座っていようと思っていたので、夕月の申し出はありがたかった。自分からそのような事を言い出すのは意外ではあったが。


 若干怖がっている夕月の手を引きながら海へと入る。汗ばんだ肌に触れる海水が心地よい。2人の間には身長差がかなりあるため、あまり深くまでは行かないように注意を払う。


 海に入る前に上着は脱がせておいた。服を着たまま泳ぐというのは思っている以上に抵抗がある。危険とまでは行かなくても万が一を考えると当然の事である。


 まぁ……楓が過保護というのも否定できないが。


 両手を取ると説明を始める。


「いいか、まずはバタ足だ。プールと違って海水は身体が浮きやすいんだ。だから身体の力を抜くことを心掛けろ」

「……手……離さないで…………お願い」

「そんな顔すんなよ。心配すんな、絶対離さないし危ないと思ったらすぐに助ける」

「……うむ」

「ま、大丈夫だ。そんな難しく無いはずだ。焦らずゆっくりやれ」


 躊躇いがちに海面に顔を浸けると身体から力を抜く。少しするとパタパタと足を動かし始めた。


 が、それも一瞬。


 すぐに顔を上げると渾身のドヤ顔を見せる。


「…………どうだ」

「どうだ、じゃねえよ! 1ミリも進んでねえんだよ!」

「…………そんな……バカな」


 続けるように促す。今度はすぐに止めないように、両手を持ちながらゆっくり後退する。


(なんだ。それなりに泳げるじゃねえか)


 10メートルほど進むとストップ。夕月は勢いよく顔を上げた。息を切らしているものの満面の笑みである。


「…………はぁはぁ」

「初めてにしては上出来だ。大丈夫か?」

「……気持ち……いい!」

「ははっ! そりゃよかったな!」

「……うん!」


 こういう事はやる気があるうちにやらせたほうがいい。幸いバタ足はできそうなので次は手を離してやらせる事にした。


 少し距離を取ると叫ぶ。


「さっきと同じだ! 身体の力を抜いて足を動かせ! 俺に向かって泳げ!」


 こくんと頷くとゆっくりと顔を浸ける。先ほどと同じようにパタパタと足を動かして少しずつ近付いてくる。



 だが、途中で不意にそれは止んだ。



 それどころか身体全体がすっぽり海中に沈み背中も見えない。

 異変に気付いた楓はすぐさま近寄っていく。


 海中に潜ると、夕月は右脚を抑えて苦しそうな表情をしている。すぐに抱きかかえると海面から顔を出す。

 その右脚をゆっくりと伸ばしてやる。しばらくすると痙攣は落ち着いたようだ。


 海水を吐き出し、咳き込む夕月の姿を見て心底後悔した。


「大丈夫か? 悪い……まだ早かったのにやらせた俺のミスだ」

「……大丈夫……ありがとう」

「すまん。とりあえず戻るか」


 小さな身体を抱いたまま歩き出す。すると夕月がそれに待ったをかけた。


「……待って」

「ん? まだ泳ぐ気ならダメだぞ」

「…………違う……お詫びと……お礼」


 楓から一旦離れると辺りを見回す。近くに人がいない事を確認してから海中へと潜った。

 またか!? と慌てて楓も潜る。



 海中で目が合った。優しく微笑むと楓の首の後ろに両手を回していく。


 気が付いたら目の前に夕月の顔があった。

 その大きな瞳を閉じ、長い睫毛が揺れている。


 冷たい海中では触れた唇の暖かさが際立つ。

 心臓の音がうるさい、だがそれは楓だけではなく、唇から伝わってくる夕月のものにも思えた。


 楓もそっと目を閉じた。


 どれだけ長い時間触れていただろうか。名残り惜しむようにゆっくりと夕月の顔が離れていく。


 海面から顔を出した2人は、双方真っ赤にその顔を染めている。


「おまえなぁ……」

「…………お礼」

「はぁ。ったく!」

「……へへ」


 どれだけ考えてもそれ以上掛ける言葉が見つからず、ただ手を繋いで歩き出す。

 

 ……何て日だ、と心の中で呟いてみてもその顔色は隠せない。

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