117 その温もりは特別で
雲の隙間から漏れる淡い冬の陽ざし、その暖かみは十分には身体に伝わってこない。その代わりという訳ではないが、空気は透き通るように綺麗で澄んでいる。
洗練された無色透明は、普段見る風景をより鮮やかに際立たせているように感じた。
刺すような寒さも冬への準備運動。本格的な冬が来ると思うと少しだけ憂鬱になった。
「寒いな」
「……うむ……息……真っ白」
夕月は手をせわしなく擦り合わせて、時々「はー」と息を吐いて温めているようだ。その仕草はあまりにわざとらしく、チラチラと楓の様子を伺ってくる事からもその目的は明らかだ。
「……寒い……寒い」
「おう、そうだな」
「……手……冷たい……なあ」
「おう、そうか」
「…………むう」
楓の手を取ろうと夕月は素早く手を伸ばした。が、楓はそれを知っていたかのように万歳して躱す。
「はっはっは! 分かってんだよ! おまえの思考なんて!」
「……くっ」
夕月はぴょんぴょん跳ねながら楓の手を目指してみるが、勿論届くはずもなかった。なので作戦を急遽変更する。
楓の着ているチェスターコートを勢いよく開くと、すかさずその中へ入り込む。楓は万歳状態のためされるがままだ。
「何やってんだおまえは!」
「……うむ……いい」
「いい、じゃねえんだよ! 離れろ!」
「……これは……なかなか……どうして」
結局はすっぽりと楓のコートの中へ収まってしまった。まるでカンガルーの子供のような体勢となり、顔だけコートから出してご満悦だ。周りの通行人からの視線が痛い。
「止めろ」と言っても止めないのは知っている。こうなった夕月は手がつけられない事は確認済みで、楓からの譲歩が必要となる。
「なあ夕月」
「……なに?」
「手繋いでいいから離れてくれ」
「……帰る……まで……ずっと?」
急場凌ぎではない事を確認する。このあたりが夕月は意外と抜け目ない。楓がそれを受け入れなければ、コートの中の住人を続けるだけなので、どっちに転んでも夕月にとってはおいしい。
楓は諦めたように首を縦に振った。
「分かった。分かったから離れてくれ」
「……約束?」
「あぁ、約束する」
「……破ったら……針……飲む?」
「千本でも万本でも飲んでやるから離れろ」
「……分かった」
観音開きにコートを開き、中から出てきた夕月は「はい」とすぐに手を差し出してきた。約束もしてしまったので、もう観念するしかない。小さな手を軽く握った。
だが、それでも夕月の表情はどこか不満そうに見える。
「……違う」
「は? ちゃんと繋いだだろうが」
「……恋人……繋ぎ」
半ば強制的に指を絡めてしっかりと手を繋いでくる。固く繋がれたその手を見て、満足そうに微笑んでいた。
「あったかい」と呟きながら見せた蕩けそうな笑顔。そんな顔を見てしまっては、もうこの手を振り解く訳にもいかない。
こうして夕月と触れ合っていると、時々思う事がある。昔どこで"体温が低い人は優しい人"と聞いた事があった。それは嘘だなと楓は心の中で思う。
(だってこいつの手。こんなに温かいしな)
夕月の体温は楓よりも高いのだろうか。そんな話はした事がないが、きっとそうなんだろうなと思った。
思えば、他人と触れ合う機会などそれ程多くはなくて、両親でさえ触れ合う事などそうそうない。楓がこうして触れるのは夕月だけだった。
夕月の温かさは不思議だ。
鬱陶しかったり、面倒だったり、時には邪魔だったりする。
でも優しく包まれてるように温かくて、なぜか安心できて――。
胸の奥の奥、誰も踏み込みこんで来ない所へ優しく滲んでくる。きっとそれが夕月という人間の魅力なのだと思う。
優れた容姿や頭脳の優秀さが目立つが、そんなものは小日向夕月の本質ではない。中身が今のように"温かい夕月"であったのなら、きっとそれだけで楓は惹かれていた。
「……楓?」
「ん? あぁ悪い。考え事してた」
「……むー! ……デート中!」
「はいはい。そうだったな」
「早く早く」と手を引っ張られながら、一緒に歩いていく。夕月のその楽しそうな後ろ姿を見て、思わず笑みが溢れる。それは楓らしくない笑顔だった。
今まで夕月には――。いや、それは多分誰にも見せた事のないような優しい笑顔で、楓本人も自分がどんな顔をしているか分かっていない。
残念ながら、前を歩く夕月はその笑顔を見逃してしまったようだ。
◇ ◇ ◇
あまりに駆け足だったため、気が付けば夕月は若干息が上がっており、「はぁはぁ」と肩で息をしていた。勿論楓はこのぐらいで疲れたりはしない。
予定よりずっと早く駅に着いてしまったため、時間にはかなり余裕があった。
「まだ時間も早いし、少し休んでくか」
「……う……うむ」
「ベンチ座ってろよ。何か飲み物買ってくる」
「……私も……行く」
「いいから座ってろよ。おまえはペース配分がおかしいんだよ。遊園地行く前に疲労困憊だぞ」
「……でも……手…………離したく……ない」
夕月は頬を膨らませて猛抗議してくるが、無視して無理矢理手を解くと、その手をそのまま頭に乗せた。しばらく撫でていたら目がとろんとしてきて、借りてきた猫のように大人しくなった。
「……ふあ」
「戻ったらまた繋いでやるから大人しくしてろ」
「……ふぁい」
気の抜けた返事が返ってきたところで、楓は駅の売店へと向かう。朝食を抜いてきたため、軽食と飲み物を買って夕月の所へ戻る。
(まあ、こうなりそうな気はしてた。はしゃぎすぎなんだよ馬鹿が)
夕月はベンチに座ったまま小さな寝息を立てている。時折首がカクンと動く様は中々に面白い。無理矢理起こすのも忍びないので、時間ギリギリまで寝せてやる事にした。
「……楓……好き……大好き」
「夢の中でまで何やってんだか。どれだけ俺の事好きなんだよこいつは」
寝言でさえ愛を囁く夕月の様子に、さすがの楓も若干呆れ気味だ。
(別に嫌な訳じゃないが)
隣に座っていた楓は、ベンチから立ち上がると夕月の正面でしゃがみ、下から覗き込むようにその顔を眺める。
(睫毛長えな)
起きている時はどこか幼い面があるため、可愛らしいという印象なのだが、こうして目を閉じて静かにしていると、その雰囲気は普段とはまるで違う。
"眠り姫"と言えばいいのだろうか。整った顔立ちの美少女を眺めていると、思わず溜息が出そうだ。
「綺麗だ」と一瞬思ったが――。
「……むふふ……ウサギさんは……食べられ……ないよ……楓」
夕月はやっぱり夕月だったようだ。とんでもない夢を見ているようで、ニヤリと笑っている。至近距離でその表情の変化を見ていた楓は、堪えきれずに吹き出した。
「やっぱこっちの顔だな。こっちのほうが夕月っぽい」
「……丸焼き……だめ」
そうこうしていると駅内のアナウンスが始まった。どうやら時間になったらしい。夕月の肩を軽く揺すって起こすと、ゆっくりと瞼を上げていく。
「……ウサギさん……食べちゃ……ダメ」
「いつまで寝惚けてんだ。時間だ、行くぞ!」
「……ふあ?」
「ほら行くぞ!」と手を取って立たせると、夕月はキョロキョロと辺りを見回して、ようやく目が覚めたようだった。
途端に顔を真っ赤にして、楓の胸のあたりを叩いてきた。
「……寝顔……見た?」
「見たぞ。涎垂れてたな」
「……ばか!」
「寝てた方が悪い」
「……許せぬ」
「普通に可愛かったから安心しろ。寝言は意味不明だったが」
「……な……可愛い……って」
「あ、やべえ! 本当に時間ねえぞ!」
「行くぞ!」と強引に夕月の腕を引っ張ると、そのまま改札へと向かう。夕月は真っ赤な顔のままでずっと無言だった。
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