108 柔らかな光の中で
「悪い。肩貸してくれ」
血を流しすぎたからか、それとも緊張の糸が切れたからか。金田兄弟の姿が見えなくなると急に視界がぐらつき始めた。結は心底呆れた様子で、救急箱から次々と治療用具を取り出している。
「用意がいいな。さすがだ」
「むしろ何も用意していない神代くんが頭おかしいと思いますが?」
「うまくもらったつもりだったんだがな。あのデブのパンチが想像以上にいかれてた」
金田雅樹の膂力は実際相当なもので、冷静に対応されたらかなり危なかった。ストリートでの柔道はそれほどに危険度が高い。
(ま、だったら服脱いだがな。いずれにしろ俺の圧勝だ)
「でも、たしかに傷は全て浅いですね。これなら病院に行く必要もありません」
「……よかった!」
なぜか楓より夕月が安心しているようで、よく見ると目尻に光るものが見えた。楓が一方的にやられている様子を、じっと耐えながら撮影していたのだ。その時の夕月の心情を考えると無理もない事だった。
結は「ほら!」と背中を叩いてきた。
ずっと我慢していたのだろう。「自分のせいで楓が。藍原さんが」と夕月は自分を責め続けていた。それでも自分のために頑張ってくれる楓の前では、弱音を吐く訳にはいかなかった。
そして今全てが終わって、張り詰めていた糸が切れた。ポタポタと流れ落ちる雫には複雑な感情が込められている。
--ごめんなさい。ありがとう。
痛いぐらいに握られている右手。カタカタと小刻みに震えており、繋がれた手は造り物のように温度が感じられない。
「泣くな」
「……無理」
「ったく! 困ったお姫様だな本当に!」
楓は、ひんやりとした夕月の手を自身の頬に触れさせる。
「殴られて熱もってるからちょうどいいな。湿布より効きそうだ」
「……な……なにを」
「温かいだろ? ほら見ろよ。傷だってたいした事ないし出血も止まった。ちゃんと無事に生きてるぞ」
「……でも」
「あー!! めんどくせえ!!」
夕月のほっぺを両手で摘まんで横に引っ張った。相変わらず餅のようによく伸びる。「いいか? よく聞け」とじっと目を合わせた。
「俺があのデブをやったのは、あいつが初対面でいきなり殴ってきたからだ。個人的に死ぬほどムカついてたんだよ。自意識過剰だボケ!」
「……ふぇも」
「でももクソもねえんだよ! これで終わりだ! 後は陽が回復してハッピーエンドだ馬鹿野郎!」
「…………」
「……おまえのそんな顔を見るために俺は戦ったのか? 違うぞ。分かるだろうが、いや分かれよ」
ぱっと両手を離すと、夕月のおでこの前に右手を近付け、指にぎりぎりと力を込める。そして全力のデコピンをくれてやった。
「……痛い!」
「そうか」
「……痛い!」
「おう」
「いきなりなにするの!」とでも言いたいように抗議の視線を向けてくる。涙はもう止まっていた。
「そもそもおまえが迷惑かけるのは織り込み済みなんだよ。とんでもない美少女と付き合ってんだ。厄介事は税金みたいなもんだ」
「……美少女」
「あ? そうだろうが。文句あんのか?」
「……嫌に……ならない?」
「散々振り回されて慣れた。つーかどうでもいい奴のために、怪我してまで戦うほどお人好しじゃねえ」
「…………へへ」
楓の体調、怪我などおかまいなしで夕月は胸に飛び込んでくる。背中に回された腕はもう温かい。じんわりと体温が伝わってきた。
「で、もういいですか? 見てるこっちが恥ずかしいんですけど」
置き去りにされた結は、不満そうな顔で二人を睨んでいた。
◇ ◇ ◇
ベッドごと上体を起こし、窓から外を見上げると柔らかな陽が顔を照らす。乾いた空気には心地よいぐらいの日差しだ。
動く度にやられた傷は痛むが、犯人に復讐しようとは思わない。
(楓に復讐されるとか怖すぎるだろ。ご愁傷様だ)
暴行事件から一週間が経った。
昨日は響と夕月さんが見舞いに来てくれて、その他のクラスメイトも来てくれた。
憂鬱だったのはやはり警察の聞き取りで、色々と頭の中で考えてはみたのだが、結局は起こった事をそのまま伝えた。楓の不利になりそうな事は言わない、と心に決めていたが、そもそも何が不利になるのか陽自身判断できない。
それに楓も色々と考えて動いただろうし、変に取り繕うのも逆に怪しい。捜査のプロに対して半端な隠し事など通じるはずもない。
(たぶんあずみ先生も知ってるだろうし心配ないよな)
そんな事より――。
肝心の楓が今だに姿を見せない。練習で忙しいと言われれば納得するが、そこまで薄情な人間でもないと思う。
(あの薄情者め!)
分かっていても陽は心の中でそう呟いた。
あの時のピースサイン。響や夕月さんは不思議な顔をしていたが、楓だけは真剣な顔つきでじっと見つめていた。不思議と伝わったと思った。
(さて、いつ来るのかな。考えても仕方ないな。寝よう)
カーテンはあえて閉めなかった。柔らかな温かみに包まれるように陽は意識を手放した。
◇ ◇ ◇
「今日は行くの?」
「あぁ、腫れ引いたしな」
金田雅樹に殴られた傷は、それほど酷いものではなかったにしろ、翌日は腫れて痛みを伴った。
すぐに陽のところへ報告に行くつもりだったが、ボコボコの顔を見せるのは嫌だった。あたかも"楽勝だった"と余裕な姿を見せなくてはならない。それが楓のプライドで――。
空気を読んだ響は「楓が敵討ちした」とだけ陽に伝えており、詳細は伝えていない。それは夕月も同様だ。
「ほんと面倒な男よねあんた」
「うるせえ」
「ほっとけ」と視線を外した楓は、そのまま机に伏せたまま寝息を立てる。いびきなどはないから静かなのだが、秒で夢の中へ入った楓の姿を見て、響は呆れて何も言えない。
金田兄弟との一戦後、響は全てを伝えられた。
金田は双子で兄の剛志は響を狙っていた事――。
陽はその二人にやられた事――。
楓は全てを知って、それでも響には伝えずに解決してみせた。陽がやられて不安定だった響の事を考え、事が終わるまでは伏せていたのだ。仮に伝えていたのなら、響は暴走していたかもしれない。
無謀だとわかっていても止まらない。止められないのだ。それが響という少女で、似た者同士の楓にだけは、少女の考えが痛いぐらいに理解できた。
(楓、ありがとう)
響が楓を見つめる視線はどこか優しい。恋人でも親友でもない腐れ縁の男。近い表現をするなら"戦友"だろうか。
普段は響は口に出してお礼なんて言わないし、楓だってそんな事は望んでいない。
夕月がいて、陽がいて、響がいて。
ただそれだけの空間を守るために楓は拳を振った。それは響にも十分すぎるほど伝わっている。
だから今だけは口にした。響自身がそうしたかったのだ。
「ありがとう楓。あんたがいてくれて……本当によかった」
「…………」
楓は相変わらず机に突っ伏したままで、聞こえているのかいないのか。あずみに注意されるまで顔を上げる事はなかった。
◇ ◇ ◇
秋晴れというには風が冷たい。よく考えてみると、あとひと月もすれば雪が降ってくるのだ。着々と冬への準備は進んでいる。
十七時を過ぎるとかなり暗くなっており、既に街灯が灯っている。
寂しげな光景だが、それとは対照的に三人は浮かれ気分だ。正確には二人だが。
夕月と響は楓の前を歩いており、「早く早く」と催促されているようで落ち着かない。
「早く歩きなさいよ。遅くなっちゃうでしょ!」
「……早く……早く!」
「知るかよ。おまえら二人は先に行ってろよ」
「いいから!! 行くわよ!!」
「お、おい!!」
強引に響に手を掴まれ、引っ張られるように病院へと向かう。その様子を見て、どうにも面白くないのは夕月だ。
「……浮気」
「は?」
「……手……繋いでる」
「おまえはバカなのか? 無理矢理掴まれてるだけだろうが」
「……ふむ」
「お、おい!!」
響に掴まれているのとは反対の手を、夕月は当然のように握ってきた。
美少女二人と手を繋ぎながら歩く男――。
歩いていてすれ違う男は、漏れなく驚いて二度見している。歯軋りが聞こえてきそうなほど悔しそうだ。
そんな周囲の視線を受けながらも、響と夕月は楓を引っ張るように病院へと向かう。結局は陽の病室に入るまで繋ぎっぱなしだった。
駆け足に近い速さで、三人は病室へと入る。
陽はベッドの上で上半身を起こし、手に持っていた文庫本を閉じると、楓達に向かって軽く手を挙げた。
「陽! 体調どう?」
「……どう?」
陽は小さく笑みを浮かべたまま首を縦に降る。響と夕月の手を振り払った楓は、ゆっくりと陽へと近寄った。
「……悪いな。見舞い遅くなった」
「……」
「色々あったけどよ。解決だ」
「……」
陽はじっと楓を見つめたままで、時折頷いている。
「あのピースの意味。助かった」
「……」
「ま、おまえにしちゃファインプレーだな」
「……」
「……ぶっ飛ばしてやった。意識を奪うぐらいにはな。だがおまえが受けた痛みには及ばないかもしれねえ。そこまで壊す事はできなかった。悪い」
陽は「いいんだ」と絞り出すように一言だけ伝えてきた。そして握り拳を作って楓の前へと伸ばす。それに呼応するように楓も右腕を伸ばした。
「終わり良ければ全て良し、だっけか? おまえはボロボロだから、全て良しではないが。……まぁそれでも」
――とりあえずハッピーエンドって事で納得しとけ。
陽の拳に自身の拳を合わせた。




