18、野球と夢
お題:戦艦の嵐 制限時間:1時間(http://sokkyo-shosetsu.com/novel.php?id=188962)を加筆修正したものです。
そして、やっと「 」と言えた。
※
ぼくのパパは、仕事が休みの日はいつだってぼくと遊んでくれた。
三輪車の乗り方を教えてくれたのも、野球のやり方を教えてくれたのもパパだ。三輪車は乗れるようになるとすぐに飽きちゃって、代わりに野球ばかりするようになった。
アパートの下の石塀に囲まれた小さなスペースで、パパがボールを投げてぼくが打つ。ボールが道路に行くと危ないからってホームランは打っちゃいけない約束になっていたのが残念だったけど、それでも楽しかった。
「パパ、ぼく野球選手になりたい」
「なれるさ、お前なら。立派な野球選手になれる。こんな狭いとこじゃなくて、大きなスタジアムでホームランを打てるようになるよ」
「本当に?!」
「ああ、もちろん」
「強くなれる?」
「もちろん。どんな嵐のような戦艦よりも、どんな強い武器を持った戦隊ヒーローよりも強い野球選手になれるぞ」
パパは豪快な笑顔でぼくに言った。変な例えが面白くて、パパがぼくを信じてくれていることが嬉しくて、ぼくも笑った。
ぼくにママはいない。ぼくを産んですぐに別の男の人と出て行ったってパパはとても悲しそうに言っていた。よく分からないけど悲しい話ならしない方が良いだろうと思って、ぼくはそれからママの話を一度もしなかった。
※
「ぼくは、死んだんですか?」
「そうです」
ぼくの質問に鍵屋さんはそう答えた。ぼくは驚いたし、どうしようもなく胸がざわめいた。でも、死んでいるってことは幽霊ってことだから“胸がざわめく”っていうのは少しおかしな言い方なのかもしれない。
何より、さっきのパパの言葉が忘れられない。やっと鍵を開けてくれたと思ったら、ぼくはいないことにされたのだから。後から後から涙が零れて、後から後から“どうして”という思いが溢れた。
「ぼくは、どうすれば……」
途方に暮れてぼくはそう言ったけど、鍵屋さんは煙草の煙をフーッと吹くだけで何も言ってくれない。鍵屋さんが貸してくれた黒い手袋で涙を拭いたが、拭いても拭いてもあまり意味がなかった。
※
ある冬の日、いつものように野球を二人でした。お日様が沈んで空がオレンジになる頃、パパが“そろそろ寒いし、帰ろう”と言った。ぼくも頷いてボールとバットを抱えた。ミットはパパが持ってくれた。本当はパパがバットも持ってくれるはずだったんだけど、ぼくが我が侭を言って持たせてもらったのだ。
ぼくたちの部屋に帰るには階段を昇らなければならなかった。階段はところどころギシギシと音を立てる。パパは確か“階段を固定しているネジが錆びているんだ”って説明してくれた。いつもこの階段を使っているけれど、このギシギシと揺れる感じは怖い。しかも、今は前の日まで降り続いていた雪が積もって凍っているから、さらに上りにくい。
“気を付けるんだぞ”と言うパパの後について階段を上る。パパの背中は大きくて見ていて安心する。いつもぼくを守ってくれる、ヒーローみたいな背中だ。
「あっ……」
手に抱えたバットが階段の段差に引っ掛かった。
足が雪で滑って、体がフワッと浮かんだ感じ。手からバットとボールが離れた。拾わなきゃと思っている間に、ぼくは気を失った。
しばらくして、ぼくは階段の上で目を覚ました。どれくらい眠っていたのだろう。空の色は真っ黒だ。辺りは静かで人気がない。ぼくは階段で眠ってしまったらしい。
「早く帰らないと」
立ち上がると、頭が少し痛かった。そういえば、バットとボールがない。パパが持って帰ってくれたのだろうか。ぼくは気を付けて慎重に階段を上がった。
階段を上がり切ってすぐのところに、乗らなくなったぼくの自転車と使いすぎて擦り切れたバットが見えた。ぼくは扉を開けようと、取っ手を握った。ドアは開かない。
「パパ?ねえ、パパ、ぼくだよ?開けて」
呼びかけても返事はない。呼び鈴を鳴らしても同じだった。中からは確かに物音がするから、パパがいるはずなんだけれど。
「パパ、開けてよ。パパ!!」
いくら待ってもそのドアが開くことはなかった。
※
今思えば、ぼくが死んでしまったのはきっとその時なのだろう。
「パパに会いたい」
口から出た言葉はそんな言葉だった。隣に座っていた鍵屋さんは、ぼくの方に振り向く。だからもう一度言う。
「ぼくは、パパに会って、話がしたい、です」
鍵屋さんはどう思ったんだろう。正面に顔を向け直すと、さっきまで比べて長めの煙で空気を白く濁らせる。鍵屋さんはまた振り向いた。結構真剣な顔をしている。
「それで?」
「え」
「その後、君はどうするんです」
その後っていうのは、パパと話した後だろうか。正直、パパと何を話したらいいのか分からない今、話した後まで考えられない。
「分かりません」
でも、とぼくは続ける。
「でも、それはパパと話した後でちゃんと考えます」
鍵屋さんは少し黙っていた。何か考えているようだった。そしてコートの中から、何かを取り出すとそれで煙草の火を消してしまった。
「手袋を返して下さい」
鍵屋さんは言った。
「君のお父さんの鍵を開けに行きましょう」
※
もう一度、ぼくたちは部屋へやってきた。再びやってきた鍵屋さんにパパは不審そうな顔をした。パパが呆気にとられている間に、鍵屋さんはさっきの鍵束を取り出すと古そうな銀色の鍵を取り出すと、パパに向けて回した。
「さようなら」
鍵屋さんがそう言うのをぼくは確かに聞いた。本当に小さな声だったけど、確かにそれはぼくに向けられた言葉で、
「お前」
色々考えているうちに目の前に立っていたパパが、ぼくを見て、そう言った。パパが、ぼくを、他でもないぼくを見ている。
「パパ……?」
次の瞬間にはぼくはパパに抱きしめられていた。パパは膝をついてぼくを必死に抱きしめる。
「パパ、ねえ、痛いよ」
パパはぼくの名前を呼ぶ。だからぼくもパパって呼んだ。少しお酒臭くなっているのが悲しかったけれど、それでも、ぼくのパパなんだ。温かい。
服の右肩が濡れた。パパが顔を埋めている部分だ。
「ねえ、パパ、ぼくを見て」
パパの顔が見たくてぼくはそう言った。パパが顔を上げる。泣き顔で鼻水も出てたけど、ぼくの顔を見るとすぐに笑顔になった。
「パパ、ぼく野球選手になりたい」
「なれるさ、お前なら。立派な野球選手になれる。こんな狭いとこじゃなくて、大きなスタジアムでホームランを打てるようになるよ」
「本当に?!」
「ああ、もちろん」
「強くなれる?」
「もちろん。どんな嵐のような戦艦よりも、どんな強い武器を持った戦隊ヒーローよりも強い野球選手になれるぞ」
パパは豪快な笑顔でぼくに言った。相変わらず変な例えなのが面白くて、まだパパがぼくを信じてくれているのが嬉しくて、ぼくも笑った。
嬉しくて、嬉しくて、結局ぼくは泣いてしまった。
……ありがとう。
ぼくは、そうパパに言った。きっともう声は届かないだろうけど。
※
そして、やっと「さようなら」と言えた。
fin.