プロローグ
5月18日——
夜風で、新緑の葉が音を立てている。さわさわと、どこか落ち着かない。それを、鏡の中の視線に悟られないように、手を動かした。淡い金色の長い髪を、彼女のために作られた櫛で梳かしていく。ランプの穏やかな光が揺れて、柔らかく照らしている。
「お嬢様、毛先が少し乾燥していますね。こちらのオイルを付けておきます」
「ありがとう。……明日からはもう、セオドアに梳いてもらえないのね」
オイルを纏った指先が、一瞬だけ止まった。
「そうですね。明日からはきっと、モルディエ家の者が……」
「うん。……そう、そうよね」
震えそうになる声を抑え込む。そっと微笑みながら、鏡の中の優しい藤色の瞳に、視線を合わせた。手のひらで温めたオイルを毛先に染み込ませ、再度櫛を滑らせる。もう、何年も繰り返してきた手順なのに、今夜だけは終わらせるのが惜しかった。離れ難くて、いつもより長く手入れしてしまう。
「……終わりました」
木製の鏡台に櫛を置き、使用した道具を片付ける。セレスティアが、いつものようにお礼を告げた。これで、今夜の仕事は終わりだ。彼女と過ごす最後の夜だった。
「ねえ」
彼女の方を見れずにいると、彼女が立ち上がる気配がした。
「……テオ」
思わず手が止まる。
その名で呼ばれたのは、今までただ一度だけ。家族と、親しい友人しか呼ばない愛称だ。セレスティアと出会った日に呼ばれて、自分が止めるようにお願いしたきり、彼女は一度もその名を口にしなかった。言いつけを守り続けてくれていたのだ。それが、なぜ、よりによって今日。
振り返るより先に、柔らかな重みが胸に飛び込んできた。細い腕が、縋るように背中へと回される。指先すら動かせず、固まってしまう。
「わたし、初めては、セオドアがいいの……。お願い、今日、抱いてほしい……」
耳を澄まさないと聞こえないほどの小さな声は、確かに震えていた。
胸元に押し付けられる、彼女の体温と柔らかさ。先ほどまで指を通していた、髪の香り。心臓の奥が、どくりと震える。自身の腕をゆっくりと持ち上げる。このまま強く、抱きしめられたなら。シーツに押し付け、唇を奪ってしまえたなら。出かかった衝動を、奥歯に力を込めて噛み殺す。
あと少しで彼女の背中というところで、持ち上げた腕から力が抜ける。それから、セレスティアの華奢な肩に手を添え、身体を離した。
「……なりません」
自分の声も、微かに震えていた。
「セレスティア様、どうかお幸せに。セオドアは……心から、それだけをお祈りしております」
セレスティアの手を取り、跪く。白くきめ細かいその甲に、唇を落とした。一瞬だけの、忠義の口付け。それ以外の意味を、許してはならない。
感情を整えるように息を吐く。そして、懐から小さな箱を取り出し、彼女の手のひらに載せた。
「私からのお守りです。嫁ぎ先では、あまり出さない方が良いかと思いますが……どうか、贈らせてください」
セレスティアの目が見開かれ、何かを言いかけた。それから、強く唇が結ばれた。受け取った箱を、両手でそっと包み込んだ。
「ありがとう、セオドア。あなただと思って、大切にするわ……」
潤んだ瞳で、こちらを見つめ微笑む。この世で、一番美しく、尊いひと。湧き上がりそうな感情に慌てて蓋をして、同じように微笑む。一礼してから、背を向けて部屋を後にした。
廊下はひんやりと冷たかった。数歩歩いたところで、壁にもたれ、しゃがみ込む。
上手く、笑えていただろうか。
しばらくそうしていると、背後の扉の向こうから、小さな声が届いた。耐えるような、押し殺した泣き声が漏れている。声を殺そうとして殺しきれない、彼女らしい泣き方。
今すぐ駆けつけたい。いつものように、背中を摩りながらそばに居たい。でも、今戻ってしまえばきっと。先ほどまで押さえ込んでいた彼女への欲が、一気に溢れてしまいそうだった。
拳を握りしめ、立ち上がる。爪が手のひらに食い込む痛みを感じながら、自室に向かって薄暗い廊下を歩いていく。
これで良かったのだ。何も、間違っていない。何度も何度も、自分に強く言い聞かせた。




