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四川の焔  作者: 水前寺鯉太郎
横浜中華街編

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第9話:宿命の七つ包丁 ―母の遺産と、黄金の極限清湯(チンタン)―

神崎のスープが、船内に広がっていた。

 赤みがかった湯気が廊下に流れ出し、給仕のスタッフが一人また一人と動きを止めていく。目の焦点が抜けていく様子が、ガラス越しに見えた。

 陳の清湯は、まだ時間がかかる。

 蓮は自分の鍋の火を見ながら、鞄を思った。

 翠龍門を出る時、裕太郎が渡してきた。「お前の母さんが、これをお前に使わせたかった時が来た時に渡せと言っていた」と言って。七本の包丁が布に包まれていた。蓮はずっと、使う時ではないと思っていた。母の形見を戦いの道具にすることへの迷いが、ずっとあった。

 しかし今夜、その迷いが消えた。

 陳の娘が船のどこかにいる。船全体が毒に飲まれようとしている。陳が二十年間守ってきた清湯の技術が、今夜決着をつけようとしている。

 蓮は鞄を開けた。

 七本の包丁が、月光の中に出てきた。

 「何を出す気だ」

 神崎が言った。

 蓮は一本目を手に取った。巨大な中華包丁だった。刃紋が複雑に走っていた。母が何のためにこれを作ったのか、蓮にはまだわからなかった。しかし手に持った瞬間、重さが手のひらに馴染んだ。

 「『破軍』。母さんが一番目に作った包丁です」

 陳が老鶏を出した。蓮は包丁を動かした。

 肉が分かれた。断面が滑らかだった。蓮が今まで出してきた断面とは違った。林が言っていた「素材を怯えさせない」という感覚が、この包丁を通して初めて完全に伝わってきた。旨みが逃げていない。断面から水分が出ていない。

 神崎が黙って見ていた。

 続けて蓮は細身の包丁に持ち替えた。

 「『流星』。清湯の掃湯に使います」

 挽肉を叩く。繊維を壊さずに細かくする作業は、翠景楼で毎日やってきた作業に近かった。しかしこの包丁を通すと、肉の感触が変わった。叩くたびに繊維が整列していくような感覚があった。

 「……繊維が壊れていない」

 神崎が言った。声が変わっていた。

 陳がスープに挽肉を入れた。

 濁りが始まった。掃湯の工程が始まる。挽肉がスープの不純物を吸着していく。通常は時間がかかる。しかし蓮の叩いた肉は、表面積が最大限に開いていた。吸着の速度が違った。

 鍋の中が、少しずつ透明になっていく。

 神崎の赤いスープが廊下にさらに広がっていた。影響を受けた乗客の数が増えている。時間がない。

 陳は鍋から目を離さなかった。

 蓮は火の調整を続けた。強すぎると濁る。弱すぎると止まる。この加減を、翠景楼の十四日間で体に覚えさせてきた。四川の火は強さで押す。今夜の火は、素材を促す。陳の清湯の邪魔をしない火だった。

 神崎が動いた。

 赤いスープの瓶を傾けた。残りをすべて鍋に入れようとした。

「止まれ」

 陳が言った。振り返らなかった。鍋だけを見ていた。

「神崎。……蓮華は、お前のスープも好きだった」

 神崎の手が、止まった。

「彼女は、どちらが美味いかという話をしたことはなかった。お前が思っているようなことは、言っていない」

 神崎は答えなかった。

 陳は続けなかった。

 清湯が完成した。

 透明だった。黄金色の透明で、光を通した。鍋の底が見えた。

 蓮は椀に注いだ。神崎の前に置いた。

「飲んでくれ」

 神崎は動かなかった。

 蓮は何も言わなかった。

 しばらく経って、神崎は椀を手に取った。口をつけた。

 厨房が静かだった。

 神崎の表情が、少しずつ変わった。怒りでも悲しみでもない何かが、その顔を通り過ぎた。

「……温かいな」

 小さい声だった。

「蓮華が作ったスープも、こういう温度だった。……俺はずっと、陳のスープと比べていた。しかし彼女は、ただ温かいものを出していただけだったのかもしれない」

 神崎は椀を置いた。

 窓の外に目を向けた。

「……負けだ」

 立ち上がった。蓮が前に出ようとした。神崎は手を上げた。止めるような仕草だった。

「逃げない。……警察に自首する。麒麟会の内部について、話せることを話す」

 陳を見た。

「すまなかった。二十年、間違えた方向を向いていた」

 陳は答えなかった。しかし顔を向けた。それだけだった。

 神崎はドアに向かった。その手に、赤いスープの瓶があった。証拠として持っていくつもりだろう、と蓮は思った。

 ドアが閉まって数分後、廊下の向こうから足音が聞こえた。

「パパ!」

 メイが走ってきた。陳が立ち上がって、娘を受け止めた。

 二人がしばらく、そのままでいた。

 蓮は七つ包丁を布に包み直した。一本ずつ、丁寧に。

 陳が蓮を見た。

「……礼を言う」

「陳さんの清湯が完成したから勝てました」

「そうではない」

 陳は少し間を置いた。

「お前は、火の使い方が変わった。翠景楼に来た日と、今夜の火は別物だ」

 蓮は包丁を鞄にしまった。

 船がゆっくりと港に向かって進んでいた。窓の外に、横浜の灯りが見えてきた。

 蓮は鞄を肩に掛けた。

 神崎が最後に何かを言いかけた気がした。しかし言わなかった。その意味を、蓮はまだ考えていた。

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