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四川の焔  作者: 水前寺鯉太郎
横浜中華街編

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第8話:赫(あか)い満月と、復讐のコンソメ ―洋上の監獄・黒き豪華客船―

翠景楼に戻ると、厨房が静かだった。

 仕込みの時間のはずだった。しかし包丁の音も、鍋の音も聞こえなかった。スタッフが数人、厨房の入口に立っていた。中に入れない様子だった。

 蓮は裏口から入った。

 陳が窓の前に立っていた。外の海を見ていた。背中が小さく見えた。蓮が翠景楼に来てから一度も見たことのない背中だった。

「……蓮、来たか」

 振り返らなかった。

 陳の娘のメイが、今朝からいない。連絡は一通だけ来ていた。

今夜、横浜港を出る「レヴィアサン号」に、陳とその弟子を連れて来い。

「……行かなければならない」

 陳の声は平坦だった。感情を抑えているのではなく、感情より深いところから出ている声だった。

「メイは、私のすべてだ」

 蓮は陳の隣に立った。

 窓の外に海が見えた。夕方の光の中で、港に大きな船が停まっていた。

 船に乗り込んだのは夜だった。

 シャンデリアの光が、吹き抜けのロビーを白く照らしていた。正装した乗客たちが、テーブルに並んだ料理を口にしながら話していた。その料理の香りの中に、蓮の鼻が引っかかるものを感じた。甘すぎる。自然ではない甘さが、料理の香りの底に混じっていた。

 最上階の扉は重かった。

 開いた先に、男がいた。

 ワイングラスを片手に、窓の外を見ていた。振り返った顔は、年齢の割に若く見えた。しかし目だけが違った。長い時間、何かを待ち続けた人間の目だった。

「……久しぶりだな、陳」

 陳が止まった。

「神崎」

 男の名を呼んだ陳の声に、蓮が今まで聞いたことのない何かが混じっていた。

 神崎は料理人だった。かつて陳と同じ師のもとで学んだ。その頃の二人は、互いに認め合っていたと後で蓮は知った。

 その関係が変わったのは、一人の女性が間に入ったからだった。

 蓮華レンファ。陳が後に妻にした女性で、神崎も愛していた。

 神崎がグラスをテーブルに置いた。

「蓮華が死んで、もう十五年になる。……お前の顔を見るたびに思い出す。俺が彼女に作ったスープを、彼女は『陳の方が美味しい』と言った。あの一言から、すべてが始まった」

 陳は答えなかった。

 神崎は続けた。

「梁山麒麟会に入ったのは、力が欲しかったからだ。お前を超える力が。……だが今は、それ以上のものを持っている」

 胸の麒麟の紋章が、室内の光を反射した。

「勝負だ。広東式の清湯を作れ。お前が勝てば娘は返す。俺が勝てば、この船の客全員が麒麟会のものになる」

「……条件を飲もう」

 陳が言った。蓮が「陳さん」と言いかけた。

「蓮、お前にも手伝ってもらう」

 船の厨房は広かった。

 神崎は赤い液体の入った瓶を取り出した。深みのある赤で、ワインとは違う色だった。

「最高級の肉を魔睡花で分解し、旨みだけを抽出した。一口飲めば、飲んだ者の感覚は永続的に書き換えられる。この味以外を美味いと思えなくなる」

 陳は鍋に水を張り始めた。

 火をつける前に、一度だけ手を止めた。

「……蓮華は、この清湯が好きだった」

 独り言のような声だった。神崎に向けた言葉ではなかった。

 神崎の手が、一瞬だけ止まった。

 蓮はそれを見た。見て、自分のコンロに向いた。

 陳が素材を入れ始めた。丸鶏、金華ハムの骨、干し貝柱。水が少しずつ色を帯びていく。蓮は火の調整を担当した。強すぎれば濁る。弱すぎれば旨みが出ない。広東の清湯は、火の加減が命だった。

 翠景楼で十四日間、蓮は火を触り続けた。四川の火は強さで押す。広東の火は素材を促す。その違いが、今夜初めて一つの鍋の中で合わさろうとしていた。

 神崎の鍋から、赤い蒸気が立ち始めた。

 その香りが厨房に広がった瞬間、給仕のスタッフが一人、動きを止めた。目の焦点がずれた。手に持ったグラスを、ゆっくりと床に落とした。

 蓮は見ていた。

 陳の清湯は、まだ透明だった。時間がかかる。神崎の毒が広がる速度の方が、今は速かった。

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