第75話(最終話):翠龍の咆哮、明日への旅立ち ――名もなき鉄、まだ見ぬ海へ
紫禁城の決戦から数日後。北京の城門の前に、蓮は一人で立っていた。
腰には、あの錆びた、不格好な山西の『名もなき鉄片』。
皇太后からは、勝利の証として、かつて黒曜(麒麟会)に奪われた母・薫の形見である「伝説の七つ包丁(名刀)」を返還されていた。しかし、蓮はその名刀を、静かに皇太后へと返上してきたのだ。
『……俺の魂は、もうその名刀にはない。……この、薄汚れた鉄片こそが、俺の包丁だ』
晴れやかな顔で、蓮は一人、日本(横浜)行きの船が出る港へと歩き出す。
これでいい。復讐は終わった。これからは、また横浜の中華街で、静かに鍋を振るうだけだ。仲間たちを、これ以上自分の因縁に巻き込むわけにはいかない。
港へと続く、一本の長い砂埃の道。
蓮が歩を進めようとしたその時、背後から鋭い「風」が飛んできた。
ゴンッ!
「……いってぇッ!?」
蓮の後頭部に、乾肉の塊がクリーンヒットする。
振り返ると、そこには腕を組んだ燕、不敵に笑う乾、そしてプンプンと怒った顔のリンが立っていた。大荷物を背負って。
「……勝手に一人で帰ろうなんて、水臭いじゃないか、蓮」
燕が山刀の鯉口を切り、カチャリと音を鳴らす。
「……砂漠の砂より、日本の潮風ってやつを、俺も拝んでみたくなってな」
乾が、スパイスの詰まった袋を肩に担ぎ直す。
「……蓮。リンの鼻を置いていくなんて、絶対に許さないんだから!」
リンが、蓮の腕にぎゅっと抱きついた。
蓮は、呆れたように、しかし心の底から愛おしそうに、溜息を吐いた。
「……お前たち。日本(横浜)は、こんな大陸みたいに広くないぞ。狭い中華街で、毎日泥臭く鍋を振るうだけだ」
「……上等だよ。……あんたの隣なら、どこだって最高の特等席(厨房)だろ?」
燕が白い歯を見せて笑う。
「……やれやれ。……荷物持ちくらいなら、やってやるさ」
蓮は苦笑しながら、腰の鉄片をぽんと叩いた。
振り返れば、遥か北京の空。
母のレシピの断片――『萬里帰一、和合の宴』。それは、単なる満漢全席の献立ではなかった。人種も、生まれも、理(思想)も違う四人が、こうして笑い合い、一つの道を歩むこと。それこそが、母が本当に作りたかった「融和」の形だったのだ。
四人の影が、夕陽に向かって長く伸びる。
海の向こう、横浜中華街へ。
伝説の包丁ではなく、不格好な『名もなき鉄片』を握りしめ、翠の龍は、まだ見ぬ新しい料理の夜明けへと、力強く羽ばたいていった。




