第7話:魂(マブイ)の伴走者 ―一番弟子の意地と、紅蓮の酢豚―
「蓮、隣に入っていいか」
裕太郎の声は静かだった。
蓮がコンロに火をつけた直後だった。裕太郎はすでにエプロンを締めていた。普段の温厚な顔ではなかった。何かを決めた人間の顔だった。
「……東坡肉を作る。お前の酢豚と並べて出したい」
「裕太郎さん」
「俺にも、この勝負に立つ理由がある」
それだけ言って、裕太郎は豚の五花肉を取り出した。蓮は一秒だけ裕太郎を見て、それから自分のコンロに向き直った。
柳はカウンターの端に立って、その様子を見ていた。絹の手袋をした手が、試験管を一本持っていた。
「二人で来るのか。……面白い」
笑っていた。余裕のある笑い方だった。
裕太郎が五花肉を下茹でし始めた。
翠龍門の厨房に、八角の香りが広がった。
その匂いが来た瞬間、蓮は手を止めそうになった。母が東坡肉を作る時の匂いだった。正月や、誰かが風邪を引いた時や、香蘭が落ち込んでいる時に、母はこれを作った。裕太郎はその隣でいつも、黙って手伝っていた。
蓮が幼い頃から、ずっとそうだった。
裕太郎は何も言わなかった。ただ肉の状態を確認しながら、紹興酒を注いだ。液体が鍋に入った瞬間、香りの層が変わった。酒の鋭さと、肉の甘みと、八角の深みが混ざり合った。
柳が動いた。
試験管の液体を、カウンターに並べた野菜に数滴垂らした。透明な液体が野菜の表面に広がった。何が起きているか、見た目ではわからなかった。
「香蘭さん、少し味を見てもらえますか」
柳が香蘭に言った。
香蘭が野菜を一切れ口に入れた。
蓮は見ていた。香蘭の表情が変わるのを。目の焦点が、少しずれた。
「……美味しい。なんか、頭がふわっとする」
「それが本物の味です」
柳の声が、滑らかだった。
蓮は黒酢を三種類、小皿に出した。
一つ目は酸味が強い。二つ目は深みがある。三つ目は後味に苦みが残る。この三つを混ぜる比率を、蓮は翠景楼の修行中に何度も試していた。答えはまだ出ていなかった。しかし今夜、出さなければならない。
柳の毒の作用は「感覚の増幅」だった。甘みを甘みとして感じさせる以上に増幅させ、脳に「これが本物だ」と刻み込む。それを打ち消すためには、逆の方向から感覚を刺激する必要がある。酸味は甘みの増幅を遮断できる。しかし強すぎれば、東坡肉の旨みも消す。
蓮は三種類の黒酢を合わせた。
小皿で舌に乗せた。
酸味が来て、深みが続いて、苦みで締まった。それは料理の味ではなく、素材そのものの主張だった。東坡肉の脂の甘みを殺さずに、毒の増幅だけを遮断できるかもしれない。
「裕太郎さん、あと何分か」
「十分」
「合わせるタイミングを教えてくれ。俺はそこに酸味を入れる」
裕太郎はうなずいた。
香蘭の様子が変わっていた。
柳が話しかけるたびに、香蘭は笑った。普段の香蘭の笑い方ではなかった。もっと受け身の、引っ張られるような笑い方だった。
「香蘭姉ちゃん」
蓮が呼んだ。香蘭が振り返った。目の焦点がずれたままだった。
「もう少し待ってくれ」
香蘭は何か言いかけて、柳の方を見た。それからまた蓮を見た。
「……蓮、早く」
小さい声だった。本人の声だった。
裕太郎が「今だ」と言った。
蓮は黒酢のソースを鍋に入れた。
酸の蒸気が上がった。東坡肉の甘い脂の香りと、黒酢の鋭さが厨房でぶつかった。二つの香りが混ざり合う前の一瞬、それぞれが最も強く主張する瞬間があった。
裕太郎が東坡肉を皿に移した。蓮がソースをかけた。
「香蘭さん」
裕太郎が皿を持って、香蘭の前に立った。
普段通りの声だった。十年間、翠龍門でそうしてきたような、変わらない声だった。
「食べてください」
香蘭は箸を取った。
肉を一切れ、口に入れた。
箸が止まった。
目の焦点が、戻った。
「……この匂い」
香蘭の声が変わった。
「お母さんが、作ってたやつ。私が熱出した時に……裕太郎くんと一緒に」
裕太郎は答えなかった。
香蘭の目から涙が出た。声を上げずに、ただ流れた。
柳が動こうとした。
蓮が前に出た。
「終わりだ」
柳は止まった。その顔に、初めて迷いのようなものが出た。一秒だけ。それからまた消えた。
「……そうだな」
柳は試験管をポケットにしまった。手袋の指先で、カウンターの端を一度だけ撫でた。
「香蘭さん」
柳が香蘭を見た。
「あなたの作る賄いを、一度だけ食べたかった」
何を意味するのか、蓮にはわからなかった。任務として言った言葉なのか、それとも別の何かなのか。
柳は背を向けた。
「次に来る者は、私とは違う。……覚悟しておくといい」
引き戸が閉まった。
厨房が静かになった。
裕太郎はカウンターに両手をついて、深く息を吐いた。長い息だった。
香蘭が裕太郎を見た。
「裕太郎くん」
「はい」
「ありがとう」
裕太郎は顔を上げなかった。うなずいただけだった。
蓮は二人から目を離して、母の遺影を見た。
東坡肉の香りがまだ厨房に残っていた。八角と紹興酒と、肉の甘みが混じった、翠龍門の匂いだった。
蓮は遺影の前に残ったソースを一皿置いた。
皿が冷めていく間、厨房は静かだった。




