第68話:没収の罠、素手の調理場 ――魂の鉄片、紫禁城の門前に散る――
一ヶ月後。
北京の空が、重い雲に覆われた。
蓮、燕、乾、リンの四人は、ついに中華の頂点・紫禁城の巨大な赤い門の前に立っていた。
中に入れば、皇太后の御前で行われる「満漢全席」の決戦。黒曜が待ち受けている。
だが、門をくぐろうとしたその時、黒い衣服を纏った宮廷の衛兵たちが、抜き身の槍を蓮たちの胸元に突きつけた。
「……止まれ。……皇太后陛下の安全のため、一切の刃物の持ち込みを禁じる」
衛兵の後ろから、嘲笑うような顔をした黒曜が現れた。
「……ククク。……蓮よ。いくら泥の食材を至高の珍味に変えようと、それを捌く刃物がなければ、何もできまい」
黒曜が、蓮の腰に下げられた山西の鉄片を指差した。
「……その、薄汚れた鉄の塊を、ここに置いていけ。……置いていかなければ、不敬罪としてその場で斬り捨てる」
「……何だとッ!? 料理人に包丁を捨てろってのか!」
燕が激昂し、山刀の柄に手をかけた。
「……待て、燕」
蓮が、静かにそれを制した。
蓮は、腰の鉄片を見つめた。
山西の泥の中で拾い、数々の死線を共に潜り抜けてきた、不格好な相棒。
(……すまない。……少しの間だけ、ここで待っていてくれ)
蓮は、何も言わず、鉄片を鞘ごと衛兵の足元へと置いた。
「……蓮ッ!?」
乾が驚きの声を上げる。
「……いいさ。……刃物が使えないなら、使わずに調理するだけだ」
蓮の瞳には、一切の迷いがなかった。
黒曜は、蓮のその泰然とした態度に、一瞬だけ顔をしかめたが、すぐに鼻で笑って踵を返した。
「……ハッ! 虚勢を張るな。……満漢全席の何百種もの食材を、刃物なしでどう捌く。……精々、手づかみで無様な料理を作るがいい!」
鉄片を奪われたまま、蓮たちは紫禁城の広大な調理場へと足を踏み入れた。
そこには、最高級の調理器具と、黒曜が買い占めた贅沢な食材が山のように積まれていた。対する蓮たちの前には、昨日ゴミ捨て場から拾ってきたような、泥臭いモツと淡水魚のコイ。そして、刃物は一本もない。
「……蓮、本当にどうするんだ。……コイの鱗も剥がせないし、モツの繊維も切れないぞ」
乾が、焦燥に駆られた声を出す。
「……乾、燕、リン。……俺の『手』を信じてくれ」
蓮は、調理台の上にコイを並べた。
そして、両手を強く握り締め、熱い竈の火に、自らの手を翳した。
「……刃物がないなら、俺の指を『刃』にする。……燕の火で熱した指先と、乾の乾燥スパイスの浸透圧。……そして、リンの嗅覚で、食材の『結合部』を正確に見極める。……三人の力があれば、骨も、肉も、素手で解体できる!」
蓮の指先が、熱と、仲間たちの知識を宿して、静かに、しかし力強く、泥臭いコイの腹へと突き立てられた。
鉄片を奪われた料理人の、肉体そのものを武器にした、前代未聞の「素手」の戦いが、今、幕を開けた。




