第6話:偽りの婚約(エンゲージ) ―調合師の罠と、血塗られた山査子(さんざし)―
第6話:山査子の首輪 ――柳という男と、姉の笑顔――
翠景楼から帰ると、翠龍門に見慣れない花束があった。
白と赤の花が混じっていた。豪華だった。しかし蓮の鼻が、その花の香りより先に別のものを捉えた。微かで、しかし鋭すぎる芳香。スパイスの匂いではない。それより合成的な、人工の甘さ。
香蘭が奥から出てきた。頬が赤かった。
「おかえり、蓮。……紹介したい人がいる」
男は白いスーツを着ていた。三十代前半。整った顔立ちで、姿勢がいい。
「柳です。香蘭さんには、大変お世話になっています」
丁寧な一礼だった。隙がなかった。
「二人で話がある」と香蘭が言った。蓮は黙って椅子に座った。
香蘭は珍しく言葉を選んでいた。普段は早口で、思ったことをそのまま言う人だった。それが今日は、一言ずつ確かめるように話した。
「柳さんは、翠龍門を続けたいって言ってくれている。お母さんが作った店を、ちゃんと残したいって。……私、それが嬉しかった」
蓮は香蘭を見た。
この人は、蓮が修行に出ている間も翠龍門を開けていた。仕入れをして、常連客の相手をして、帳簿をつけた。母が死んでから、誰よりも早くここに来て、誰よりも遅くここを出た。翠龍門を続けることに、香蘭は蓮より長く向き合ってきた。
「……結婚を考えているということか」
「うん」
柳が蓮を見た。
「蓮くん、驚かせてしまったね。香蘭さんのことは、本当に大切にするつもりだ。この店のことも」
蓮は答えなかった。
その間も、鼻が働いていた。柳の身体から漂う芳香が、翠景楼の鮑の戻し汁で感じた匂いと重なっていた。同じではない。しかし同じ系統の何かだった。
柳が帰った後、蓮は台所のテーブルに残された菓子の箱を開けた。
山査子の飴がけだった。
真っ赤に輝く、伝統的な中華菓子。串に刺さって、光を反射している。香蘭が「きれい」と言っていたのを蓮は覚えていた。
蓮は一粒を手に取った。
指で軽く表面を叩いた。音が返ってきた。
硬さが、少し違った。砂糖の飴がけは、温度と時間によって結晶化の速度が変わる。この硬さは速すぎる。砂糖だけでは出ない硬さだった。
蓮は飴を光にかざした。
内部に、微細な層が見えた。砂糖の結晶の間に、別の何かが混じっている。均一ではない分布の仕方が、天然の素材ではなく、調合されたものの特徴だった。
蓮は飴を皿に置いた。
魔睡花の変異種だと、確信した。林に使われたものとは別の調合だった。即効性ではなく、長期間少量ずつ摂取させるための配合。食べ続けるほど依存が深まり、やがて与える側の意図に沿って感情が動くようになる。
香蘭は今日、何粒食べたか。
蓮は菓子の箱を閉じた。
翌朝、蓮は翠景楼に寄った後、翠龍門に戻った。
柳がすでに来ていた。香蘭と並んで座って、何か話していた。二人の間の空気が、昨日よりも親密だった。
「柳さん」
蓮は立ったまま言った。
「姉ちゃんを幸せにしてくれるというなら、俺と料理で勝負してほしい。あんたが贈った山査子より、もっと姉ちゃんを笑顔にする一皿を俺が作る。それを見て、それでも姉ちゃんに相応しいと思うなら、俺は何も言わない」
香蘭が「蓮」と言った。止めようとしていた。
柳は少し笑った。
「面白い。……では、見せてもらおうか」
その笑いが何を意味しているか、蓮にはわかった。驚いていない。想定していた、という笑い方だった。
決戦の場は翠龍門の厨房だった。
蓮が選んだのは酢豚だった。
広東の酢豚は素材の甘みを生かす。四川の酢豚は火の力で素材を変容させる。その両方を蓮はこの一か月で触れていた。広東の水が、四川の火の扱い方を変えていた。素材を変容させるだけでなく、素材が持っているものを引き出しながら変容させる。その感覚を、今日初めて使う。
柳は厨房の端に立った。
白いスーツのまま、腕を組んでいた。調理道具は持っていない。代わりに、内ポケットから細長い試験管を三本取り出して、カウンターに並べた。液体が入っていた。透明だった。
「蓮くん、先に始めてくれていい」
蓮はコンロに火をつけた。
鍋が温まり始める。
香蘭はカウンターの椅子に座って、黙って見ていた。その手元に、昨日の山査子の菓子箱があった。蓮は見ないようにした。
豚バラを切り始めた。
広東の刀工を意識した。素材に余分なストレスを与えない。細胞を潰さない。林が言った「力が入りすぎている」という言葉を思い出しながら、包丁を動かした。
柳が試験管の一本を手に取った。
無造作に、切った野菜の上に数滴垂らした。
蓮は見ていた。何をされたか、まだわからなかった。




