第54話:紅き対流 ――燕の火鍋と、母の矜持――
谷底に、朝の光が入り始めていた。
毒の霧を香辛料の気流で押しのけた後、三人は谷底の栽培所に向かった。
栽培所の管理をしていた男が、その中にいた。李という男だった。燕が、昨夜の道中で蓮に話していた。五年前、四川の食材に毒を流通させた麒麟会の調合師の一人だと。燕の母が使っていた食材に毒を仕込んだのが、この男だと。
男たちは毒の霧の中にいたが、蓮たちが香辛料の気流で谷の空気を変えたことで、意識を取り戻していた。
李だけが、別の場所に立っていた。
「……私の『安息の霧』を、あんな料理で無力化するとは」
李が懐から紫色の粉末を出した。
自分の口に流し込んだ。
李の腕に、黒い筋が浮いた。吐く息の色が変わった。李の周囲の草が萎れた。
リンが後ろに下がった。
「……毒が変わった。さっきの霧より強い。体の中から出てる」
「わかった」と蓮が言った。
燕が前に出た。
荷物から鍋を出した。仕切りのある鍋だった。火鍋用の二色鍋だった。獄炎の厨房から持ち出してきたものだった。
「燕」と蓮が言った。
「ここは俺がやる」
燕の声が変わっていた。普段より低かった。
石を積んだ。火をつけた。鍋を乗せた。
鍋の片側に、白いスープを入れた。
太平燕の残りから取った白湯だった。
もう片側に、唐辛子と豆板醤と花椒を入れた。
火が当たると、紅い油が動き始めた。
燕は荷物から朝天唐辛子を出した。両手で握った。力を込めた。
汁が出た。
鍋に入れた。
熱が来た。谷の空気が変わった。唐辛子と花椒の香りが立ち上がった。李の周囲の毒の息が、その熱気に押されて散った。
「李」と燕が言った。
「なんだ」
「あんたが四川の食材に毒を仕込んだ。五年前に」
「そうだ」
「俺の母親が、それで死んだ」
李は答えなかった。
「俺はここに来た時、焼き払おうとした。全部燃やせばよかった。でも今は違う」
「何が違う」
「焼き払っても、母親は戻らない。でも、この火鍋は残る」
鍋が煮え立ってきた。
紅いスープと白いスープが、仕切りを挟んで並んでいた。
燕は器に紅いスープを注いだ。
李に近づいた。
「飲め」
「断る」
「飲め。これが四川の火だ。母さんの火だ」
李は燕を見た。
燕の目が変わっていなかった。怒りではなかった。何か別のものだった。
李はスープを受け取った。
一口飲んだ。
熱かった。
李の体に、何かが来た。毒を仕込み続けた五年間、ずっと冷たいものの中にいた体に、熱が入ってきた。
「熱い」
「そうだ」
「なぜこれを俺に飲ませる」
「あんたが生きているからだ。生きているなら、熱くなれる」
李はもう一口飲んだ。
体の中で、何かが動いた。毒に侵されていた細胞の、まだ死んでいない部分が、熱に反応していた。
李の膝が折れた。地面についた。
燕は鍋の前に戻った。
膝をついた。
しばらく、鍋を見ていた。
蓮が燕の隣に来た。
「……いい火だった」
「そうか」
「母さんの火だと言っていた」
「そうだ。母親がいつも言っていた。唐辛子は攻めるためじゃない、起こすためにあると。……今日、初めてわかった気がする」
リンが鍋を覗き込んだ。
「まだ火がついてる」
「そうだ」
「もう少し煮えたら食べていい?」
「食べろ」
三人で火鍋を食べた。
紅いスープと白いスープを交互に使った。辛い方を食べると体が熱くなった。白い方を食べると落ち着いた。どちらも必要だった。
谷底に朝の光が満ちていた。
李は地面に座ったまま、火鍋の鍋を見ていた。
「麒麟会の者を呼ぶか」と蓮が聞いた。
「呼ばない。……もう終わりだ」
「終わりとはどういう意味だ」
「麒麟会は今、内部で動きがある。覇王が死んだ後から、組織が変わってきている」
「何が変わっているのか」
「西の彼方に、新しい動きがある。覇王とは別の方向からの話だ。……詳しくは知らない。しかし四川より西に向かえば、わかるかもしれない」
蓮はその言葉を聞いた。
「それを教えるのはなぜだ」
「この火鍋を飲んだからだ」
李はそれだけ言って、黙った。
三人は谷を出た。
燕が最後に谷底を振り返った。
栽培所の跡があった。鍋の火がまだ煙を上げていた。
「行くぞ」と蓮が言った。
「うん」
燕は前を向いた。
四川の山が続いていた。




