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四川の焔  作者: 水前寺鯉太郎
西域獄炎編

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54/75

第54話:紅き対流 ――燕の火鍋と、母の矜持――


 谷底に、朝の光が入り始めていた。

 毒の霧を香辛料の気流で押しのけた後、三人は谷底の栽培所に向かった。

 栽培所の管理をしていた男が、その中にいた。李という男だった。燕が、昨夜の道中で蓮に話していた。五年前、四川の食材に毒を流通させた麒麟会の調合師の一人だと。燕の母が使っていた食材に毒を仕込んだのが、この男だと。

 男たちは毒の霧の中にいたが、蓮たちが香辛料の気流で谷の空気を変えたことで、意識を取り戻していた。

 李だけが、別の場所に立っていた。

「……私の『安息の霧』を、あんな料理で無力化するとは」

 李が懐から紫色の粉末を出した。

 自分の口に流し込んだ。

 李の腕に、黒い筋が浮いた。吐く息の色が変わった。李の周囲の草が萎れた。

 リンが後ろに下がった。

「……毒が変わった。さっきの霧より強い。体の中から出てる」

「わかった」と蓮が言った。

 燕が前に出た。

 荷物から鍋を出した。仕切りのある鍋だった。火鍋用の二色鍋だった。獄炎の厨房から持ち出してきたものだった。

「燕」と蓮が言った。

「ここは俺がやる」

 燕の声が変わっていた。普段より低かった。

 石を積んだ。火をつけた。鍋を乗せた。

 鍋の片側に、白いスープを入れた。

 太平燕の残りから取った白湯だった。

 もう片側に、唐辛子と豆板醤と花椒を入れた。

 火が当たると、紅い油が動き始めた。

 燕は荷物から朝天唐辛子を出した。両手で握った。力を込めた。

 汁が出た。

 鍋に入れた。

 熱が来た。谷の空気が変わった。唐辛子と花椒の香りが立ち上がった。李の周囲の毒の息が、その熱気に押されて散った。

「李」と燕が言った。

「なんだ」

「あんたが四川の食材に毒を仕込んだ。五年前に」

「そうだ」

「俺の母親が、それで死んだ」

 李は答えなかった。

「俺はここに来た時、焼き払おうとした。全部燃やせばよかった。でも今は違う」

「何が違う」

「焼き払っても、母親は戻らない。でも、この火鍋は残る」

 鍋が煮え立ってきた。

 紅いスープと白いスープが、仕切りを挟んで並んでいた。

 燕は器に紅いスープを注いだ。

 李に近づいた。

「飲め」

「断る」

「飲め。これが四川の火だ。母さんの火だ」

 李は燕を見た。

 燕の目が変わっていなかった。怒りではなかった。何か別のものだった。

 李はスープを受け取った。

 一口飲んだ。

 熱かった。

 李の体に、何かが来た。毒を仕込み続けた五年間、ずっと冷たいものの中にいた体に、熱が入ってきた。

「熱い」

「そうだ」

「なぜこれを俺に飲ませる」

「あんたが生きているからだ。生きているなら、熱くなれる」

 李はもう一口飲んだ。

 体の中で、何かが動いた。毒に侵されていた細胞の、まだ死んでいない部分が、熱に反応していた。

 李の膝が折れた。地面についた。

 燕は鍋の前に戻った。

 膝をついた。

 しばらく、鍋を見ていた。

 蓮が燕の隣に来た。

「……いい火だった」

「そうか」

「母さんの火だと言っていた」

「そうだ。母親がいつも言っていた。唐辛子は攻めるためじゃない、起こすためにあると。……今日、初めてわかった気がする」

 リンが鍋を覗き込んだ。

「まだ火がついてる」

「そうだ」

「もう少し煮えたら食べていい?」

「食べろ」

 三人で火鍋を食べた。

 紅いスープと白いスープを交互に使った。辛い方を食べると体が熱くなった。白い方を食べると落ち着いた。どちらも必要だった。

 谷底に朝の光が満ちていた。

 李は地面に座ったまま、火鍋の鍋を見ていた。

「麒麟会の者を呼ぶか」と蓮が聞いた。

「呼ばない。……もう終わりだ」

「終わりとはどういう意味だ」

「麒麟会は今、内部で動きがある。覇王が死んだ後から、組織が変わってきている」

「何が変わっているのか」

「西の彼方に、新しい動きがある。覇王とは別の方向からの話だ。……詳しくは知らない。しかし四川より西に向かえば、わかるかもしれない」

 蓮はその言葉を聞いた。

「それを教えるのはなぜだ」

「この火鍋を飲んだからだ」

 李はそれだけ言って、黙った。

 三人は谷を出た。

 燕が最後に谷底を振り返った。

 栽培所の跡があった。鍋の火がまだ煙を上げていた。

「行くぞ」と蓮が言った。

「うん」

 燕は前を向いた。

 四川の山が続いていた。

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