第53話:谷底の薬膳師 ――太平の燕、毒を制す――
蓮の放った香辛料の上昇気流が、乳白色の毒霧を裂いた。
晴れ渡った谷底の、朽ちかけた栽培所の跡に、一人の男が立っていた。
ひょろりと長く、青白い肌。纏う衣からは、カビと干し草、そして微かな「水銀」の匂いが漂っている。
麒麟会・薬膳部隊『毒蛛』の長、李。
「……ほほう。覇王様を倒したという鴉のヒナが、まさか香辛料で瘴気を晴らすとは。……面白い。……だが、私の『毒薬同源』の理の前では、その火もただの焚き火に過ぎん」
李が指を弾くと、栽培所の影から、毒の瘴気に侵され、理性を失った数人の男たちが現れた。彼らの肌は青紫に染まり、口からは泡を吹いている。
「……こいつらは、私の作った『試薬』の副作用だ。……さあ、薫の息子よ。……お前の料理で、この哀れな男たちを『救って』みせろ。……救えなければ、お前たちも、その横の寝返った燕も、彼らの餌食だ」
「……あいつ、母親を殺した毒を、まだ人間に使ってる……!」
燕が山刀を握り締め、憎悪に燃える目で李を睨みつけた。
だが、蓮は動かなかった。目の前の男たちは、敵ではない。病人だ。
「……リン。こいつらの匂い、どうだ」
「……すごく、冷たい。……お腹の中がカチカチに凍って、動いてないみたい」
蓮は、腰の鉄片を岩に叩きつけた。
「……燕。お前の荷物にある『干しエビ』と『干し椎茸』、そして『春雨』を出せ。……それと、今朝の豚肉の残りだ」
「……え? それで、こいつらを治すのか?」
「……ああ。……奪う火ではなく、与える火でな」
蓮は、毒霧が晴れたことで見つかった、谷の清流の水を鍋に汲んだ。
そこに、鉄片で細かく叩いた干しエビと椎茸、そして燕が繊維に沿って切った豚肉を投入し、強火で一気に煮出す。
立ち昇ったのは、麻辣の刺激ではない。食材の旨味が凝縮された、濃厚で、しかしどこか懐かしい、「滋養」の香りだった。
蓮はそこに、たっぷりの野菜と、戻した春雨を投入する。
『太平燕』。
本来は豚肉を叩き伸ばした皮で具を包むが、今の蓮にはその時間はない。だが、春雨という「植物性の繊維」が、スープの旨味をたっぷりと吸い込み、毒に侵された胃腸を優しく刺激する。
「……食え。……これが、お前たちの『平穏』だ」
蓮は、器に盛った太平燕を、理性を失った男たちの前に置いた。
男たちは最初、不審げに器を見ていたが、その香りに誘われるように、貪るようにスープを啜り始めた。
「……熱い。……お腹が、温かい……」
男たちの一人が、涙を流しながら呟いた。
春雨のツルリとした食感と、エビの旨味が、凍りついていた彼らの五臓六腑を温め、毒素を尿や汗と共に体外へ排出させていく。青紫だった彼らの肌に、赤みが戻り始めた。
「……馬鹿な! 私の毒を、ただの春雨スープで中和したというのか!」
李の顔が、驚愕に歪んだ。
「……李。お前の薬膳は、人を『試す』ための道具だ。……だが、料理は人を『生かす』ためのものだ」
蓮は、熱を帯びた鉄片を李に向けた。
「……母さんが言っていた。……本当の薬膳は、食べた瞬間に『生きててよかった』と思わせるものだってな」




