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四川の焔  作者: 水前寺鯉太郎
西域獄炎編

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52/75

第52話:毒の谷と、沈黙の鉄 ――立ち昇る気流、守護の香り――

 燕の足が速かった。

 剣門関を抜けてから、道が細くなっていた。木々が低くなり、谷間への下り坂になっていた。足元がぬかるんでいた。空気が湿っていた。

 リンが立ち止まった。手で鼻を覆った。

「……止まって」

「何だ」

「前の谷から嫌な匂いが来てる。甘くて冷たい。食べ物じゃない。……生き物を眠らせるような匂い」

 先を歩いていた燕が振り返った。

「麒麟会の毒だ。母親の料理に混じっていたのと同じ匂いだ」

 燕の声が変わっていた。

 谷の底に、白い霧があった。

 朝霧とは違う質の白さだった。動きが遅かった。低いところに留まっていた。

 蓮は鼻を動かした。

 リンほど鮮明ではなかったが、甘みが来た。自然の甘みではない種類の甘みだった。

「どこから来ている」とリンに聞いた。

「谷の底。霧の中に何かがある。栽培されてる植物の匂いがする」

「麒麟会が植えたものか」

「そう思う」

 燕が荷物から山刀を出した。

「焼き払う」

「待て」

「五年前からまだある。獄炎様は放置していた。でも俺は違う」

 蓮は燕の肩を掴んだ。引き戻した。

「行けば死ぬ。霧を吸えば終わりだ」

「離せ」

「逃げ道もない。霧が上がってきている」

 燕は谷を見た。

 白い霧が、斜面を少しずつ上がってきていた。ゆっくりだったが、確かに動いていた。

 リンの呼吸が浅くなっていた。

 蓮は岩陰に二人を引っ張った。

 風上だった。霧はまだここには来ていなかった。しかしあと何分かで届く。

 腰の鉄片を出した。

「燕、干し唐辛子と山椒の枝を出してくれ」

「何をするつもりだ」

「急げ」

 燕が荷物を開けた。干し唐辛子と山椒の枝を出した。

 蓮は足元の乾いた岩の上に広げた。

 鉄片を両手で持った。岩に当てた。

 摩擦で温度を上げた。打つたびに鉄が熱くなっていく感触が手に伝わってきた。強く打った。また打った。

 火花が岩の表面に散った。

 蓮は熱くなった鉄片を、唐辛子と山椒の上に押し当てた。

 煙が上がった。

 爆発的な香りだった。唐辛子の辛みと、山椒の痺れが一気に空気に広がった。

 しかしその煙は横に広がらず、上に向かった。

 鉄片の熱と、唐辛子の揮発する成分が作った上昇気流が、煙を真上に引っ張っていた。その気流が、斜面を這い上がってくる白い霧を両側に押しのけていた。

「息を吸え」と蓮が言った。「この煙の中なら大丈夫だ」

 リンが深く吸い込んだ。咳き込んだ。しかし顔色が戻ってきた。

「……辛い。でも、さっきの甘い匂いが消えた」

 燕も吸い込んだ。

 唐辛子と山椒の香りが鼻の奥に来た。燕はしばらく、その煙の中に立っていた。

「……同じ匂いだ」と燕が言った。

「何と同じだ」

「今朝、俺が作った麻婆豆腐と。唐辛子と山椒の組み合わせが同じだ」

「そうか」

「麻婆豆腐を作る時も、油に唐辛子を入れた瞬間、こういう煙が上がる。でも俺はただ料理だと思っていた」

「料理だ。今やったことも料理の延長だ」

 燕は鉄片を見た。

「鉄片一枚で、谷の毒を防いだのか」

「防いだのは唐辛子と山椒だ。鉄片は熱を作っただけだ」

 霧が少し引いた。

 気流が霧を押しのけていた。完全ではなかったが、道が見えてきた。

 谷の底に、朽ちた建物の跡があった。栽培所の跡だった。

 その周囲に、人影があった。数人いた。動いていた。

「麒麟会の者か」とリンが言った。

「そうだと思う。栽培所を管理している者がいる」

 燕が山刀を持ったまま立っていた。

「焼き払うのは誰でもできる」と蓮が言った。

 燕は蓮を見た。

「では、どうする」

「まず人影が何者かを確認する。それからだ」

 三人は岩陰から動かなかった。

 煙がまだ上がっていた。鉄片はまだ温かかった。唐辛子の香りが周囲を保っていた。

 燕が山刀を荷物に戻した。

「……わかった。お前のやり方でやる」

「そうしてくれ」

「でも、あの栽培所は必ず潰す。母親が死んだのはあそこから来た毒のせいだ」

「それはやる。時機を見て」

 燕はうなずいた。

 谷の底の人影が動いていた。

 蓮は鉄片を持ったまま、その動きを見ていた。

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