第52話:毒の谷と、沈黙の鉄 ――立ち昇る気流、守護の香り――
燕の足が速かった。
剣門関を抜けてから、道が細くなっていた。木々が低くなり、谷間への下り坂になっていた。足元がぬかるんでいた。空気が湿っていた。
リンが立ち止まった。手で鼻を覆った。
「……止まって」
「何だ」
「前の谷から嫌な匂いが来てる。甘くて冷たい。食べ物じゃない。……生き物を眠らせるような匂い」
先を歩いていた燕が振り返った。
「麒麟会の毒だ。母親の料理に混じっていたのと同じ匂いだ」
燕の声が変わっていた。
谷の底に、白い霧があった。
朝霧とは違う質の白さだった。動きが遅かった。低いところに留まっていた。
蓮は鼻を動かした。
リンほど鮮明ではなかったが、甘みが来た。自然の甘みではない種類の甘みだった。
「どこから来ている」とリンに聞いた。
「谷の底。霧の中に何かがある。栽培されてる植物の匂いがする」
「麒麟会が植えたものか」
「そう思う」
燕が荷物から山刀を出した。
「焼き払う」
「待て」
「五年前からまだある。獄炎様は放置していた。でも俺は違う」
蓮は燕の肩を掴んだ。引き戻した。
「行けば死ぬ。霧を吸えば終わりだ」
「離せ」
「逃げ道もない。霧が上がってきている」
燕は谷を見た。
白い霧が、斜面を少しずつ上がってきていた。ゆっくりだったが、確かに動いていた。
リンの呼吸が浅くなっていた。
蓮は岩陰に二人を引っ張った。
風上だった。霧はまだここには来ていなかった。しかしあと何分かで届く。
腰の鉄片を出した。
「燕、干し唐辛子と山椒の枝を出してくれ」
「何をするつもりだ」
「急げ」
燕が荷物を開けた。干し唐辛子と山椒の枝を出した。
蓮は足元の乾いた岩の上に広げた。
鉄片を両手で持った。岩に当てた。
摩擦で温度を上げた。打つたびに鉄が熱くなっていく感触が手に伝わってきた。強く打った。また打った。
火花が岩の表面に散った。
蓮は熱くなった鉄片を、唐辛子と山椒の上に押し当てた。
煙が上がった。
爆発的な香りだった。唐辛子の辛みと、山椒の痺れが一気に空気に広がった。
しかしその煙は横に広がらず、上に向かった。
鉄片の熱と、唐辛子の揮発する成分が作った上昇気流が、煙を真上に引っ張っていた。その気流が、斜面を這い上がってくる白い霧を両側に押しのけていた。
「息を吸え」と蓮が言った。「この煙の中なら大丈夫だ」
リンが深く吸い込んだ。咳き込んだ。しかし顔色が戻ってきた。
「……辛い。でも、さっきの甘い匂いが消えた」
燕も吸い込んだ。
唐辛子と山椒の香りが鼻の奥に来た。燕はしばらく、その煙の中に立っていた。
「……同じ匂いだ」と燕が言った。
「何と同じだ」
「今朝、俺が作った麻婆豆腐と。唐辛子と山椒の組み合わせが同じだ」
「そうか」
「麻婆豆腐を作る時も、油に唐辛子を入れた瞬間、こういう煙が上がる。でも俺はただ料理だと思っていた」
「料理だ。今やったことも料理の延長だ」
燕は鉄片を見た。
「鉄片一枚で、谷の毒を防いだのか」
「防いだのは唐辛子と山椒だ。鉄片は熱を作っただけだ」
霧が少し引いた。
気流が霧を押しのけていた。完全ではなかったが、道が見えてきた。
谷の底に、朽ちた建物の跡があった。栽培所の跡だった。
その周囲に、人影があった。数人いた。動いていた。
「麒麟会の者か」とリンが言った。
「そうだと思う。栽培所を管理している者がいる」
燕が山刀を持ったまま立っていた。
「焼き払うのは誰でもできる」と蓮が言った。
燕は蓮を見た。
「では、どうする」
「まず人影が何者かを確認する。それからだ」
三人は岩陰から動かなかった。
煙がまだ上がっていた。鉄片はまだ温かかった。唐辛子の香りが周囲を保っていた。
燕が山刀を荷物に戻した。
「……わかった。お前のやり方でやる」
「そうしてくれ」
「でも、あの栽培所は必ず潰す。母親が死んだのはあそこから来た毒のせいだ」
「それはやる。時機を見て」
燕はうなずいた。
谷の底の人影が動いていた。
蓮は鉄片を持ったまま、その動きを見ていた。




