第51話:燕の飛翔 ――紅竜会を出た女と、母の味――
老人の小屋を出た翌朝、蓮とリンは四川の奥への道を歩いていた。
剣門関を抜けると、道が広くなった。両側に山が続いていた。霧が低かった。朝の四川は湿気があった。
リンが鼻を動かした。
「誰か来る」
「どこから」
「後ろから。走ってる」
足音が近づいてきた。
振り返ると、女が走っていた。
昨日、獄炎の使いで来た者だった。赤い衣を着ていたが、今は普通の服に変わっていた。荷物を背負っていた。息が上がっていた。
蓮の前で止まった。
「待ってくれ」
「燕か」
「そうだ」
蓮は燕を見た。
「獄炎の使いではないのか」
「もう使いじゃない。今朝、飛び出してきた」
「なぜ」
燕は少し間を置いた。
「昨日のおこげを食べてから、眠れなかった。……ずっと考えていた。俺は何のために紅竜会にいたのか」
「答えは出たか」
「出た。理由がなかった。ただ獄炎様が強かったから、そこにいた。それだけだった」
リンが燕を見た。
「獄炎は怒らないの?」
「怒る。でも追いかけてくる前に遠くに行けばいい」
「そういう考え方なんだ」
「四川の人間はそうだ。飛び出す時は飛び出す」
リンは少し考えてから、蓮を見た。
「一緒に来てもいい?」と蓮が聞いた。
「来てもいいか聞きに来た」
「役に立てるか」
「料理ができる。獄炎様の厨房で三年働いた。麻辣の扱いなら誰にも負けない」
「麻辣だけか」
「麻辣だけじゃない。母親から教わったものもある」
三人で歩き始めた。
しばらく歩いて、休める場所を探した。
道の脇に、水が流れていた。清流だった。四川の山から来る水だった。
燕が荷物を下ろした。
「何か作る。腹が減っているだろう」
「作れるか」とリンが聞いた。
「作れる」
燕は荷物から食材を出した。
出てきたのは、干した唐辛子、豆腐、葱、少量の豚肉だった。
「獄炎様の厨房から持ち出してきた」
「それは盗んだのではないか」
「俺が仕込んだものだ。持って出る権利がある」
燕は石を並べて即席の竈を作った。
動きが速かった。手順が決まっていた。
豚肉を切った。細かかった。蓮の切り方とは違う切り方だった。繊維を断つのではなく、繊維に沿って細く切っていた。
「どういう切り方だ」とリンが聞いた。
「母親から教わった。四川では繊維に沿って切ると、火が通りやすい。特に豚肉は」
「獄炎の切り方とは違うのか」
「違う。獄炎様は力で切る。でも母親は丁寧に切っていた」
油を熱した。
唐辛子を入れた。
香りが来た。麻辣の香りだった。しかし獄炎の香りとは違った。同じ唐辛子なのに、焦げる手前の香りだった。ぎりぎりで止めていた。
豆腐を入れた。
豚肉を入れた。
葱を入れた。
鍋を動かした。大きく動かさなかった。小さく、丁寧に動かした。
リンが鼻を動かした。
「……辛い匂いがするのに、優しい感じがする」
「そうだ」と燕が言った。「母親はいつもそう言っていた。辛さは攻めるためにあるんじゃない、食材を起こすためにあると」
器に盛った。
三人分あった。
蓮は食べた。
辛みが来た。しかし覇王のスープのように感覚を消さなかった。老陳醋のように感覚を整理しなかった。辛みが来た後に、豆腐の柔らかさが来た。豚肉の旨みが来た。それぞれが順番に来た。
「……これは」
「母親が毎朝作っていた麻婆豆腐だ。四川の家庭料理のやつ。獄炎様の麻辣燙とは別物だ」
「別物だな」
「そうだ。獄炎様の料理は試す料理だ。母親の料理は食べさせる料理だった」
リンが器を持ったまま言った。
「燕って、名前は燕なの?」
「そうだ」
「四川の人らしい名前だね」
「そうか?」
「うん。飛び出してきたし」
燕は少し笑った。
「言われたことなかった」
「私はリン。こっちは蓮。一緒に旅してる」
「知ってる。獄炎様から話を聞いた」
「どんな話?」
「北京で覇王を倒したと。山西から鉄を持ってきたと。おこげを作れると」
「おこげは昨日初めて作った」とリンが言った。
「そうなのか」
「うん。老人に教わった」
「あの爺さんに」
「知ってるの?」
「剣門関に来た時から住んでいる。獄炎様も昔、あの爺さんのおこげを食べたと言っていた」
蓮は燕を見た。
「一つ聞いていいか」
「なんだ」
「母親は今どこにいる」
燕の手が止まった。
「死んだ。五年前に」
「そうか」
「麒麟会の毒が四川に入ってきた時に、食材に混じっていた。母親は料理人だったから、毎日使っていた。気づいた時には遅かった」
蓮は何も言わなかった。
「だから獄炎様について行った。麒麟会と戦うためだ。でも獄炎様のやり方は、戦うというより試すだけだった。……俺は戦いたかった」
「俺たちも戦っている」
「知っている。だから来た」
食事が終わった。
燕が片付けた。
リンが蓮に小声で言った。
「いい人だね」
「そうだな」
「一緒に来てもらえてよかった」
「まだ始まったばかりだ」
燕が荷物を背負い直した。
「四川の奥に行くんだろう。道を知っている。案内する」
「頼む」
三人で歩き始めた。
四川の山が続いていた。
燕が先を歩いた。足が速かった。迷いがなかった。
この道を何度も歩いてきた人間の足取りだった。




