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四川の焔  作者: 水前寺鯉太郎
西域獄炎編

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第50話:五百年の焦燥、一瞬の剥離 ――鉄の予熱と、委ねる火――

翌朝、蓮は老人の小屋に戻った。

 老人はまた炭火の前に座っていた。昨日と同じ場所に、同じ姿勢で座っていた。

「また来たか」

「もう少し見ていたい」

「構わない」

 老人は鍋を見ていた。蓮は老人の隣に座った。

 しばらく見ていた。

 老人は動かなかった。鍋を見るだけだった。木べらも持っていなかった。ただそこにいた。

 リンが小屋の外で何かを食べていた。市場で買ってきた饅頭だった。

 蓮は鉄片を出した。

「使っていいか」

「構わない」と老人が言った。

 海老があった。

 宿場町の市場で買っておいたものだった。他に、干し貝柱と、乾燥した海苔があった。

 鉄片を炭火の近くに置いた。

 予熱させた。

 山西でやった作業とは逆のことをするつもりだった。山西では鉄片を生地に当てて、重みで削った。しかし今回は、鉄片の熱だけを使う。火を食材に直接当てるのではなく、鉄が蓄えた熱を使って、じわじわと火を入れる。

 鉄片が温まった。

 海老を鉄片の上に乗せた。

 海老が動いた。鉄の熱が伝わっていた。しかし思ったより早かった。海老の表面だけが焼けた。中がまだ生だった。

 取り出した。

 失敗だった。

 もう一度やった。

 今度は鉄片をもう少し冷ましてから海老を乗せた。

 しかし今度は熱が足りなかった。海老が焼けなかった。

 また取り出した。

 また失敗だった。

 老人は見ていなかった。鍋を見ていた。

 三回目。

 蓮は鉄片の温度を手で確かめた。近づけた時の熱の感じを確かめた。

 海老を乗せた。

 今度は待った。

 動かさなかった。

 しかし待っている間に、また表面だけが焼けてきた。中まで火が入る前に、外が焦げそうになった。

 急いで取り出した。

 また中が生だった。

 蓮は鉄片を見た。

 三回やって、三回失敗した。

 温度が高すぎれば外だけ焼ける。低すぎれば火が入らない。ちょうどいい温度を探しているが、その「ちょうどいい」がわからなかった。

 老人を見た。

 老人はまだ鍋を見ていた。

「何回試した?」と老人が聞いた。

「三回だ」

「急いでいるか」

「急いでいない」

「しかし三回で答えを出そうとしている」

 蓮は少し間を置いた。

「違うのか」

「答えを出そうとするのが間違いだ。……鉄が教えてくれるのを待て」

 それだけ言って、また鍋を見た。

 蓮は鉄片を炭火の近くに置いた。

 今度は何もしなかった。

 ただ待った。

 鉄片が温まっていく。手を近づけると、熱が来た。もう少し近づけた。もう少し来た。

 その変化を、手で感じていた。

 海老を持った。

 鉄片に手が近づいた時に感じた熱の強さを思い出した。あの強さの時に、海老を乗せれば、どうなるか。

 乗せた。

 動かさなかった。

 海老の端から、白くなっていった。ゆっくりだった。焦げる感じがなかった。

 リンが小屋の入口から顔を出した。

「何かいい匂いがしてきた」

「黙っていてくれ」

「わかった」

 海老が白くなっていった。中心の方まで、少しずつ。

 取り出した。

 切った。

 中まで火が入っていた。

 老人が初めてこちらを見た。

「できたか」

「できた」

「何が違った」

「答えを探すのをやめた。鉄が教えてくれるのを待った」

「それだけか」

「……鉄の温度を、自分の手で感じながら待った。鉄が何かを言っている感じがした」

 老人はうなずいた。

「そうだ。鉄は話す。ただし、聞こうとしている者にしか聞こえない」

 蓮は海老の残りを使って、作業を続けた。

 干し貝柱を鉄片の余熱で温めた。乾燥海苔を、鉄の端で少しだけ炙った。

 ご飯を土鍋に入れた。老人の鍋の隣に置いた。

 炭火の加減を、老人の鍋を見ながら合わせた。強すぎず、弱すぎず。

 待った。

 底から音が来た。老人が言っていた音だった。米が外側に恋をして抱きつく音だった。

 海老と貝柱と海苔を乗せた。

 また待った。

 音が変わった。

 蓮は素手で蓋を取った。

 琥珀色のおこげが底にあった。その上に海鮮が乗っていた。海老が赤くなっていた。貝柱が縮んでいた。海苔が少し焦げていた。

 老人が鼻を動かした。

「海の匂いと、火の匂いが混じっている」

「そうだ」

「海鮮おこげか」

「そうだ」

 その時、小屋の外で足音がした。

 紅竜会の者だった。一人だった。昨日、剣門関で包囲していた者の一人だった。

「獄炎様から使いに来た。蓮が何をしているか確認してこいと」

 蓮は使いの者を見た。

「食べていくか」

 使いの者は少し戸惑った様子だった。しかし小屋の中の香りが、その動きを止めた。

「……何の匂いだ」

「海鮮おこげだ」

 使いの者は入ってきた。

 器を渡した。

 一口食べた。

 動きが止まった。

 もう一口食べた。

 しばらく何も言わなかった。

「……昨日の麻辣湯と、全然違う」

「そうだ」

「同じ火なのに」

「使い方が違う」

 使いの者は器を持ったまま、しゃがみ込んだ。

 泣いているわけではなかった。しかし何かが緩んだ顔をしていた。

「……子供の頃に、母親がこういうものを作ってくれた。おこげを鍋から剥がして、醤油をかけて食べた」

「そうか」

「忘れていた。……紅竜会に入ってから、ずっと辛いものばかり食べていた」

 使いの者は器を置いた。立ち上がった。

「獄炎様に報告する。……蓮は修行中だと伝える」

「構わない」

 使いの者は出ていった。

 老人が言った。

「与える火が、一人に届いた」

「そうだな」

「それでいい。一人ずつだ。急がなくていい」

 蓮はおこげの残りを食べた。

 リンが入ってきた。

「私も食べていい?」

「食べろ」

 リンが食べた。

「美味しい。昨日のより、もっと優しい」

「昨日の方が強かったからな」

「どっちが好き?」とリンが聞いた。

「両方必要だ」

「なんで」

「奪う火がなければ、与える火の意味がわからない」

 リンは少し考えてから言った。

「獄炎のおじさんのこと?」

「そうだ」

 炭火がかすかな音を立てていた。

 老人はまた次のおこげを待っていた。

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