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四川の焔  作者: 水前寺鯉太郎
横浜中華街編

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第5話:絶技の終焉 ―水底の刀工と、凍てついた海鮮炒飯―

翠景楼の朝は、氷を削るような音から始まる。

 広東料理は刀工がすべてだと、蓮は修行を始めてから十四日間で理解していた。素材の断面が滑らかであるほど、旨みの逃げ道が少なくなる。火の通り方が均一になる。四川の「加える」料理とは逆の、「損なわない」ための技術だった。

 その刀工において、陳の右腕と呼ばれた男がいた。

 リン

 裏庭で蓮が魚を捌いている間、林はいつも厨房の端で仕事をしていた。一言も話しかけてこなかった。しかし一度だけ、蓮が鯛の鱗を剥いでいた時に、通りすがりに言った。「力が入りすぎている。皮が怯えている」。それだけ言って、自分の冬瓜に戻った。

 その林が、十五日目の朝、横浜港で発見された。

 警察が引き上げてから、厨房は静かだった。

 陳はカウンターの端に腰を下ろし、煙草を燻らせていた。煙が細く上に向かって伸びていく。その指先が、微かに震えているのを蓮は見ていた。

「……事故じゃない」

 蓮は言った。断定だった。

「林さんの手を見ていた。昨日まで、一ミリの迷いもなかった」

 陳は答えなかった。煙草の火が、静かに短くなっていった。

 昼過ぎ、蓮の携帯に連絡が入った。以前から付き合いのある食通の刑事からだった。

「司法解剖の結果が出た。胃の中から魔睡花の成分が出た。それも、今まで見たことのない反応だ」

 蓮は礼を言って電話を切った。

 林が死の直前まで試作を繰り返していた料理があると、陳から聞いていた。冷蔵庫にその食材が残っているという。

 蓮は冷蔵庫を開けた。

 大粒の海老。帆立。細かく刻まれた金華ハム。どれも最高級の品だった。しかし蓮が海老を手に取った瞬間、指先で違和感を感じた。断面を見た。

 海老の細胞が、内側から毛羽立っていた。

 林の刀工は、素材に余分なストレスを与えない。この断面は林の仕事ではない。別の誰かが、林の食材を触っている。

 蓮は鍋に火をつけた。

 チャーハンを作ることは難しくない。

 しかし広東式の海鮮チャーハンを本物に仕上げるためには、火の入れ方と素材の投入順が精密でなければならない。蓮は林がどういう手順で作ろうとしていたかを、食材の状態から逆算しながら再現した。

 米粒がほぐれ、海鮮の香りが立ち始めた。

 仕上げに鍋を煽った。皿に盛る。

 一口、食べた。

 旨みが来た。本物の旨みだった。林が選んだ食材の質が、そのまま味になっていた。

 しかし次の瞬間、何かがずれた。

 旨みの層が、動いた。

 最初に感じた海老の甘みが、食べ進めるうちに別の何かに変わっていく。金華ハムの塩気が消え、代わりに感じたことのない香りが来た。それは料理の香りではなかった。もっと根本的な何か、食欲そのものに直接触れるような感覚。

 蓮は箸を止めた。

 頭が揺れていた。厨房の輪郭がにじんで見えた。鍋の縁が、光って見えた。

 (……これは)

 深呼吸をした。目を閉じた。

 脳が「もっと食べろ」と言っていた。今まで感じたことのない最高の味がある、あと一口で届く、そう言っていた。しかし手元を見ると、皿の中のチャーハンは冷めかけていて、何も特別ではなかった。

 幻覚だった。

 蓮は皿を押した。立ち上がろうとして、一度膝をついた。

 林は、これを食べながら包丁を持っていた。

 この感覚の中で、自分の刀工が完璧に動いていると信じながら。海の月が最高の食材に見えた時、その手が水に向かったのだろう。

 蓮は床に手をついたまま、しばらくそのままでいた。

 「魔睡花の変異種だ。感覚を増幅させる方向に作用する」

 正気に戻った頃、陳が厨房に入ってきた。蓮は立ち上がって、陳に言った。

 陳は今度は煙草を持っていなかった。代わりに、刃の一部が欠けた包丁を両手で持っていた。

「……林のだ」

 陳の声が、低かった。

「麒麟会は彼に話を持ちかけた。究極の集中力が手に入ると言って、この毒を渡した。林は自分の刀工が極致に達したと信じ込んだ。……最後に何が見えたかは、私にはわからない」

 陳は包丁をカウンターに置いた。

 蓮はその包丁を見た。欠けた刃の断面が、まだ光っていた。昨日まで使われていた包丁の光だった。

「林さんは、自分の技術が落ちていると感じていたのか」

「五年前から、少しずつそう言っていた。私は気づいていた。だが何も言わなかった」

 陳の指先が、カウンターの上で止まった。

 蓮は陳を見た。陳はカウンターを見ていた。その目が何を見ているのか、蓮にはわからなかった。後悔なのか、それとも別の何かなのか。

「陳さん。麒麟会は料理人の弱い部分を狙っている。母さんも、朴さんも、林さんも。……次は誰かに決まっている」

 陳はしばらく黙っていた。

 それから立ち上がり、厨房の方を見た。

「お前は今日も裏庭に行け。鮑の戻しを確認しろ」

 それだけだった。

 裏庭に出ると、昼の光が水面を白く反射していた。

 蓮は水に手を浸けた。冷たかった。十五日間、毎日浸けてきた手だった。

 林の包丁の刃の欠けた断面が、まだ頭に残っていた。

 あの欠けはいつからあったのか。五年前から刀工が落ちていると林が感じていたなら、欠けはその頃から始まっていたかもしれない。完璧に見えていた刃が、少しずつ、気づかないうちに。

 蓮は鮑の入った容器に手を伸ばした。

 戻し汁の香りを確かめる。今日は昨日より落ち着いていた。誰かが触っていない。

 厨房の窓に、陳の影が見えた。動いていなかった。

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