第48話:火を視る眼 ――紅竜の試練と、紅き覚醒――
包囲されていた。
獄炎の部下たちが、三方から迫っていた。唐辛子の煙が、剣門関の岩壁に沿って広がっていた。逃げ場がなかった。
蓮は煙の中に立っていた。
目が痛かった。喉の奥が乾いていた。山西で取り戻した感覚が、この熱気の中で揺らいでいた。覇王のスープは感覚を「無」に向けて消した。しかしこの熱は逆だった。感覚を全方向に拡散させて、収拾がつかなくなる方向に追い込んでいた。
「どうした!」と獄炎が言った。「北京の静かさに慣れすぎたか」
三人の精鋭が鍋を出した。
火をつけた。油を入れた。唐辛子と花椒を大量に投入した。
香りが来た。
麻辣の香りだった。四川の原点の香りだった。辛みと痺れが凝縮されたその香りは、空気を変えた。リンが叫んだ。
「蓮、逃げて。鼻の奥が全部焼けた匂いになった。何も考えられなくなる」
「下がっていてくれ」
「でも」
「下がっていてくれ」
蓮は足元を見た。
焚き火の脇に、唐辛子が落ちていた。朝天唐辛子だった。空に向かって実をつける、四川の唐辛子だった。熟れていた。
手に取った。
握りつぶした。
皮が割れた。汁が出た。掌が熱くなった。
手を顔に近づけた。
深く吸い込んだ。
喉の奥に来た。花椒の痺れと唐辛子の熱が同時に来た。予想していたより強かった。
咳が出そうになった。堪えた。
もう一度吸い込んだ。
今度は来なかった。
いや、来ていた。しかし最初より整理されていた。痺れと熱が、別々に届いていた。花椒の痺れが舌の奥にあって、唐辛子の熱が喉の上にあった。二つが重なっていた。
目を開けた。
霧の中が、さっきより鮮明に見えた。
「獄炎」と蓮が言った。
「なんだ」
「あんたは炎に試されると言った」
「そうだ」
「あんたがこの炎の向こう側に何を見ているのか、教えてくれ」
獄炎は笑わなかった。
「見せてやる。お前が答えられたらな」
「答える」
「お前の手にある廃材で、か」
「山西の鉄だ。廃材じゃない」
蓮は鉄片を握り直した。
三人の精鋭が鍋の前に立っていた。麻辣湯が煮え立っていた。その鍋に、食材が並んでいた。
蓮は鍋に近づいた。
熱が来た。顔が熱くなった。しかし引かなかった。唐辛子の香りが肺の中にあった。その香りが、熱の中で蓮の感覚を保っていた。
食材を見た。
豆腐があった。腸詰めがあった。野菜があった。鍋の中で煮えていた。
リンが後ろから言った。
「蓮、鍋の右側、少し温度が違う匂いがする」
「どう違う」
「左より少し低い。食材がまだ中まで火が入ってない感じ」
蓮は鍋の右側を見た。
対流の方向が左と右で違っていた。右側は流れが遅かった。火が均一に当たっていなかった。
鉄片を鍋の縁に当てた。
重みで鍋を少し傾けた。
対流が変わった。右側に火が回り始めた。
獄炎が止まった。
部下たちも止まった。
蓮が麻辣湯の鍋に手を入れて対流を変えたことを、誰も予想していなかった様子だった。
「……何をした」
「火の入り方を変えた。右側が遅かった」
「鍋の外から、鉄一本で」
「重みを使った。傾ければ対流が変わる」
獄炎は鍋を見た。
右側の食材が、今度は均一に動いていた。
「……面白い」
獄炎は腕を組んだ。
「廃材のくせに、なかなかやる」
「山西の鉄だ」
「同じことだ」
しかし獄炎は笑っていた。
怒りではなく、何かを見た時の笑いだった。
「今夜、来い。酒の席で話を続ける」
部下たちが引いた。
包囲が解けた。
リンが蓮の隣に来た。
「鼻の感覚、大丈夫?」
「少し戻った」
「唐辛子のおかげ?」
「そう思う。……老陳醋と同じだ。強い刺激が、感覚を整理してくれる」
「四川に来てよかったね」
「まだ始まったばかりだ」
剣門関の霧が、少し薄くなっていた。
夕方の光が、岩壁の上から差し込んでいた。
蓮は唐辛子の汁がついた手を見た。
まだ少し熱かった。しかしその熱は、今は邪魔ではなかった。




