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四川の焔  作者: 水前寺鯉太郎
西域獄炎編

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46/52

第46話:紅き便り ――姉の結婚と、西への風――

黄河が見えた。

 北京を出てから二日が経っていた。四川へ向かう中継地点の宿場町だった。埃っぽい風が吹いていた。北京とも上海とも広州とも違う、乾いた大陸の奥の風だった。

 郵便局があった。

 王寒石に、北京に着いたら連絡先を教えておくと言っていた。横浜の翠龍門にも、定期的に所在を知らせていた。

 窓口に聞くと、蓮宛に封筒があった。

 消印は横浜だった。

 宿場町の端に、木のベンチがあった。

 二人で座った。

 リンが隣で何かの干し肉をかじっていた。市場で買ってきたものだった。

 蓮は封を切った。

 薄い便箋だった。

 香蘭の字だった。少し急いで書いた字だった。しかし書き直した跡がなかった。一度で書き上げた手紙だった。

 翠龍門の近況が書いてあった。新しい弟子が二人入った。常連の老夫婦が戻ってきた。ランチの定食が完売した日があった。

 最後の一行があった。

私と裕太郎さんは、先月、結婚しました。式は内輪だけで済ませたけれど、あなたの分のお膳も用意しておいたわよ

 蓮はその一行を読んだ。

 もう一度読んだ。

「……そっか。あの二人、やっとか」

 声が出た。自分でも気づかなかった。

「誰からの手紙?」とリンが聞いた。

「姉さんから」

「何が書いてあったの」

「翠龍門の話。それと……姉さんが結婚した」

「おめでとうって言わないといけないね」

「そうだな」

 リンは少し考えた。

「手紙、嗅いでいい?」

「どうぞ」

 リンが便箋に鼻を近づけた。

「……白檀の匂いがする。あと、米の匂いと、少しだけ油の匂い」

「姉さんは、いつも白檀の香水をつけていた。米と油は厨房の匂いだ」

「翠龍門の匂い?」

「そうだと思う」

 リンは便箋を返した。

「……いい匂い。遠くから来た匂いだけど、温かい」

 蓮は手紙を畳んだ。

 鞄にしまった。

 黄河を見た。川幅が広かった。水が茶色かった。大陸の泥を含んだ水の色だった。

 横浜の海とは違う色だった。

 翠龍門では、今頃何を作っているだろう。香蘭と裕太郎が並んで厨房に立っている。新しい弟子が包丁の持ち方を覚えている。常連の老夫婦が定食を食べている。

 蓮がいなくても、翠龍門は続いていた。

 それは当たり前のことだった。しかし手紙を読んでから、その当たり前が実感になった。

「腹が減ってきた」とリンが言った。

「そうか」

「何か作れる?」

「何があるか見てくる」

 宿場町の市場に向かった。

 小さい市場だった。野菜と肉が少しあった。

 蓮は豚肉と葱を買った。

 宿に戻って、携帯用のコンロで炒めた。

 鉄片を使った。豚肉を叩いて、繊維を崩した。葱と一緒に炒めた。

 シンプルな一皿だった。名前もない料理だった。

 リンが食べた。

「美味しい」

「そうか」

「北京で食べたものより、こっちの方が好き」

「なぜ」

「蓮が作ったから」

 蓮は何も言わなかった。

 食べ終わった後、西の空を見た。

 夕暮れだった。赤かった。

「明日、四川に向けて出発する」

「わかった」

「獄炎がいる。西の五虎星だ」

「また強い人なの」

「そうらしい。ラオが言っていた。四川の深部で、人を発狂させる辛みを研究している巨漢だと」

「巨漢」

「そうだ」

「背が高いの?」

「わからない。会えばわかる」

 リンは空を見た。

「四川って遠いの?」

「ここから何日かかかる」

「電車はある?」

「ある」

「よかった」

 日が落ちた。

 宿に入った。

 蓮は荷物を確認した。七つの包丁があった。鉄片があった。老陳醋の小瓶があった。母の手帳があった。

 手帳を開いた。

 最後のページを見た。

完成した。母さんの代わりに。

 自分で書いた一行だった。

 その下に、まだ白紙があった。

 蓮はそのページを閉じた。

 第三部の白紙は、四川で埋まるものだった。

 翌朝、宿を出た。

 風が西から来ていた。

 四川の方向から来ていた。

 蓮は歩き始めた。

 リンが隣で鼻を動かした。

「……何かの匂いがする。遠いけど、辛い匂い」

「四川の匂いだ」

「もう届いてるの?」

「お前の鼻には届いてる」

 リンは少し考えた。

「蓮、あの匂いより強いもの作れる?」

「作れるかどうかはわからない」

「でもやってみる?」

「やってみる」

 桟道が続いていた。

 黄河の水が、西に向かって流れていた。

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