第46話:紅き便り ――姉の結婚と、西への風――
黄河が見えた。
北京を出てから二日が経っていた。四川へ向かう中継地点の宿場町だった。埃っぽい風が吹いていた。北京とも上海とも広州とも違う、乾いた大陸の奥の風だった。
郵便局があった。
王寒石に、北京に着いたら連絡先を教えておくと言っていた。横浜の翠龍門にも、定期的に所在を知らせていた。
窓口に聞くと、蓮宛に封筒があった。
消印は横浜だった。
宿場町の端に、木のベンチがあった。
二人で座った。
リンが隣で何かの干し肉をかじっていた。市場で買ってきたものだった。
蓮は封を切った。
薄い便箋だった。
香蘭の字だった。少し急いで書いた字だった。しかし書き直した跡がなかった。一度で書き上げた手紙だった。
翠龍門の近況が書いてあった。新しい弟子が二人入った。常連の老夫婦が戻ってきた。ランチの定食が完売した日があった。
最後の一行があった。
私と裕太郎さんは、先月、結婚しました。式は内輪だけで済ませたけれど、あなたの分のお膳も用意しておいたわよ
蓮はその一行を読んだ。
もう一度読んだ。
「……そっか。あの二人、やっとか」
声が出た。自分でも気づかなかった。
「誰からの手紙?」とリンが聞いた。
「姉さんから」
「何が書いてあったの」
「翠龍門の話。それと……姉さんが結婚した」
「おめでとうって言わないといけないね」
「そうだな」
リンは少し考えた。
「手紙、嗅いでいい?」
「どうぞ」
リンが便箋に鼻を近づけた。
「……白檀の匂いがする。あと、米の匂いと、少しだけ油の匂い」
「姉さんは、いつも白檀の香水をつけていた。米と油は厨房の匂いだ」
「翠龍門の匂い?」
「そうだと思う」
リンは便箋を返した。
「……いい匂い。遠くから来た匂いだけど、温かい」
蓮は手紙を畳んだ。
鞄にしまった。
黄河を見た。川幅が広かった。水が茶色かった。大陸の泥を含んだ水の色だった。
横浜の海とは違う色だった。
翠龍門では、今頃何を作っているだろう。香蘭と裕太郎が並んで厨房に立っている。新しい弟子が包丁の持ち方を覚えている。常連の老夫婦が定食を食べている。
蓮がいなくても、翠龍門は続いていた。
それは当たり前のことだった。しかし手紙を読んでから、その当たり前が実感になった。
「腹が減ってきた」とリンが言った。
「そうか」
「何か作れる?」
「何があるか見てくる」
宿場町の市場に向かった。
小さい市場だった。野菜と肉が少しあった。
蓮は豚肉と葱を買った。
宿に戻って、携帯用のコンロで炒めた。
鉄片を使った。豚肉を叩いて、繊維を崩した。葱と一緒に炒めた。
シンプルな一皿だった。名前もない料理だった。
リンが食べた。
「美味しい」
「そうか」
「北京で食べたものより、こっちの方が好き」
「なぜ」
「蓮が作ったから」
蓮は何も言わなかった。
食べ終わった後、西の空を見た。
夕暮れだった。赤かった。
「明日、四川に向けて出発する」
「わかった」
「獄炎がいる。西の五虎星だ」
「また強い人なの」
「そうらしい。ラオが言っていた。四川の深部で、人を発狂させる辛みを研究している巨漢だと」
「巨漢」
「そうだ」
「背が高いの?」
「わからない。会えばわかる」
リンは空を見た。
「四川って遠いの?」
「ここから何日かかかる」
「電車はある?」
「ある」
「よかった」
日が落ちた。
宿に入った。
蓮は荷物を確認した。七つの包丁があった。鉄片があった。老陳醋の小瓶があった。母の手帳があった。
手帳を開いた。
最後のページを見た。
完成した。母さんの代わりに。
自分で書いた一行だった。
その下に、まだ白紙があった。
蓮はそのページを閉じた。
第三部の白紙は、四川で埋まるものだった。
翌朝、宿を出た。
風が西から来ていた。
四川の方向から来ていた。
蓮は歩き始めた。
リンが隣で鼻を動かした。
「……何かの匂いがする。遠いけど、辛い匂い」
「四川の匂いだ」
「もう届いてるの?」
「お前の鼻には届いてる」
リンは少し考えた。
「蓮、あの匂いより強いもの作れる?」
「作れるかどうかはわからない」
「でもやってみる?」
「やってみる」
桟道が続いていた。
黄河の水が、西に向かって流れていた。




