第45話:完全の終わり
覇王が器を置いた。
粥を食べ終えていた。
厨房が静かだった。健が鍋を片付けていた。リンが壁際に立っていた。蓮は覇王を見ていた。
「……変わる、か」
覇王が言った。独り言のような声だった。
「一口ごとに違う。……同じ器の中に、次がある」
「そうだ」
「薫が言いたかったのは、これか」
「俺はそう思う」
覇王はしばらく器を見ていた。
「負けだ」
静かな声だった。
崩れなかった。膝もつかなかった。ただ、そう言った。
「私の理は、変化を排除することで完全を目指した。しかしそれは、完全ではなく停止だった。……薫は正しかった」
蓮は何も言わなかった。
「七本の包丁を返す」
覇王は棚に向かった。布に包まれた包丁の袋を持ってきた。蓮の前に置いた。
蓮は受け取った。
重さが手に戻った。横浜から持ち歩いてきた重さだった。
「一つ聞いていいか」と蓮が言った。
「なんだ」
「母さんのことを、どう思っていたのか」
覇王は少し間を置いた。
「薫は私の理を理解しなかった。しかし否定もしなかった。……証明しようとした。それだけだ」
「それだけか」
「それ以上は言えない」
蓮はうなずいた。
覇王が調理台に向かった。
自分のスープの鍋を見た。完全に均一な、透明なスープだった。
「このスープは、今日で最後だ」
「捨てるのか」
「違う。完成させる。……私なりの方法で」
覇王は鍋を火にかけた。
スープが温まった。
覇王は自分の漆黒の包丁を取った。
蓮は覇王を見ていた。
何かが違った。包丁の持ち方が、料理をする時と違った。
「覇王」
蓮は一歩踏み出した。
しかし覇王が振り返った。
「止まれ」
声が変わっていた。命令ではなかった。頼むような声だった。
「……私は、自分の料理と共に終わる。それが、私の完成だ」
「そんな必要はない」
「お前には関係ない。これは私の理の問題だ」
蓮は動けなかった。
止めようとした。足が出なかった。覇王の目が、止まれと言っていた。その目に、初めて見る何かがあった。
穏やかさだった。
これまでの覇王の目にはなかったものだった。
覇王はスープを一口飲んだ。
それから包丁を持った手を動かした。
音がした。
リンが顔を背けた。
健が鍋を持ったまま動かなかった。
蓮は見ていた。
静かになった。
覇王が床に倒れた。
スープの鍋が、まだ火の上で温まっていた。
蓮は覇王のそばに膝をついた。
覇王の目が、まだ開いていた。
「……蓮」
声が出た。まだ生きていた。
「聞こえるか」
「聞こえる」
「……お前の母親は、正しかった」
それだけだった。
目が閉じた。
厨房が静かになった。
スープの鍋が、かすかな音を立てていた。
リンが蓮の隣に来た。何も言わなかった。
健が鍋を下ろした。火を止めた。
蓮は七つの包丁の袋を持ったまま、覇王を見ていた。
鉄片が腰にあった。七本の包丁が手にあった。
どちらも持っていた。
どのくらい経ったかわからなかった。
蓮は立ち上がった。
母の手帳を出した。
白紙だった最後のページを開いた。
43話で「覇王の料理を完成させる」と書いた一行の下に、もう一行書いた。
完成した。母さんの代わりに。
手帳を閉じた。
三人で地下を出た。
石の階段を上がった。
紫禁城の外に出た。
北京の空だった。雲があった。しかし光が差していた。
健が空を見上げた。
「上海に戻る」
「そうか」
「父親の名誉を、まだ全部は晴らせていない。続きがある」
「わかった」
リンが健を見た。
「また会える?」
「会える。……お前たちが次に来る街で待っていてやる」
健は笑った。広州で最初に見た笑い方だった。
それから歩き始めた。
北京の雑踏に入って、消えた。
蓮とリンは、紫禁城の外に立っていた。
七つの包丁が手にあった。鉄片が腰にあった。
「次はどこに行くの」とリンが聞いた。
「第三部は西だ。四川の深部に、西の獄炎がいる」
「また強い人がいるの」
「そうらしい」
「また料理で倒すの」
「それしかできない」
リンは少し考えた。
「蓮の料理、また食べたい」
「腹が減ったら作る」
「今すぐ減った」
蓮は周囲を見た。
北京の街に、食堂があった。
「あそこに入るか」
「うん」
二人で歩き始めた。
北京の風が、西から来ていた。




