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四川の焔  作者: 水前寺鯉太郎
大陸遠征編

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45/54

第45話:完全の終わり

覇王が器を置いた。

 粥を食べ終えていた。

 厨房が静かだった。健が鍋を片付けていた。リンが壁際に立っていた。蓮は覇王を見ていた。

「……変わる、か」

 覇王が言った。独り言のような声だった。

「一口ごとに違う。……同じ器の中に、次がある」

「そうだ」

「薫が言いたかったのは、これか」

「俺はそう思う」

 覇王はしばらく器を見ていた。

「負けだ」

 静かな声だった。

 崩れなかった。膝もつかなかった。ただ、そう言った。

「私の理は、変化を排除することで完全を目指した。しかしそれは、完全ではなく停止だった。……薫は正しかった」

 蓮は何も言わなかった。

「七本の包丁を返す」

 覇王は棚に向かった。布に包まれた包丁の袋を持ってきた。蓮の前に置いた。

 蓮は受け取った。

 重さが手に戻った。横浜から持ち歩いてきた重さだった。

「一つ聞いていいか」と蓮が言った。

「なんだ」

「母さんのことを、どう思っていたのか」

 覇王は少し間を置いた。

「薫は私の理を理解しなかった。しかし否定もしなかった。……証明しようとした。それだけだ」

「それだけか」

「それ以上は言えない」

 蓮はうなずいた。

 覇王が調理台に向かった。

 自分のスープの鍋を見た。完全に均一な、透明なスープだった。

「このスープは、今日で最後だ」

「捨てるのか」

「違う。完成させる。……私なりの方法で」

 覇王は鍋を火にかけた。

 スープが温まった。

 覇王は自分の漆黒の包丁を取った。

 蓮は覇王を見ていた。

 何かが違った。包丁の持ち方が、料理をする時と違った。

「覇王」

 蓮は一歩踏み出した。

 しかし覇王が振り返った。

「止まれ」

 声が変わっていた。命令ではなかった。頼むような声だった。

「……私は、自分の料理と共に終わる。それが、私の完成だ」

「そんな必要はない」

「お前には関係ない。これは私の(ことわり)の問題だ」

 蓮は動けなかった。

 止めようとした。足が出なかった。覇王の目が、止まれと言っていた。その目に、初めて見る何かがあった。

 穏やかさだった。

 これまでの覇王の目にはなかったものだった。

 覇王はスープを一口飲んだ。

 それから包丁を持った手を動かした。

 音がした。

 リンが顔を背けた。

 健が鍋を持ったまま動かなかった。

 蓮は見ていた。

 静かになった。

 覇王が床に倒れた。

 スープの鍋が、まだ火の上で温まっていた。

 蓮は覇王のそばに膝をついた。

 覇王の目が、まだ開いていた。

「……蓮」

 声が出た。まだ生きていた。

「聞こえるか」

「聞こえる」

「……お前の母親は、正しかった」

 それだけだった。

 目が閉じた。

 厨房が静かになった。

 スープの鍋が、かすかな音を立てていた。

 リンが蓮の隣に来た。何も言わなかった。

 健が鍋を下ろした。火を止めた。

 蓮は七つの包丁の袋を持ったまま、覇王を見ていた。

 鉄片が腰にあった。七本の包丁が手にあった。

 どちらも持っていた。

 どのくらい経ったかわからなかった。

 蓮は立ち上がった。

 母の手帳を出した。

 白紙だった最後のページを開いた。

 43話で「覇王の料理を完成させる」と書いた一行の下に、もう一行書いた。

完成した。母さんの代わりに。

 手帳を閉じた。

 三人で地下を出た。

 石の階段を上がった。

 紫禁城の外に出た。

 北京の空だった。雲があった。しかし光が差していた。

 健が空を見上げた。

「上海に戻る」

「そうか」

「父親の名誉を、まだ全部は晴らせていない。続きがある」

「わかった」

 リンが健を見た。

「また会える?」

「会える。……お前たちが次に来る街で待っていてやる」

 健は笑った。広州で最初に見た笑い方だった。

 それから歩き始めた。

 北京の雑踏に入って、消えた。

 蓮とリンは、紫禁城の外に立っていた。

 七つの包丁が手にあった。鉄片が腰にあった。

「次はどこに行くの」とリンが聞いた。

「第三部は西だ。四川の深部に、西の獄炎がいる」

「また強い人がいるの」

「そうらしい」

「また料理で倒すの」

「それしかできない」

 リンは少し考えた。

「蓮の料理、また食べたい」

「腹が減ったら作る」

「今すぐ減った」

 蓮は周囲を見た。

 北京の街に、食堂があった。

「あそこに入るか」

「うん」

 二人で歩き始めた。

 北京の風が、西から来ていた。

          

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