第43話:完成への共鳴 ――二つの鉄と、父子の旋律――
覇王が調理台の前に立った。
「見せてみろ」と言った時の声と同じ声だった。待っていた声だった。
蓮は厨房を見た。
食材が整然と並んでいた。干し貝柱、金華ハム、老鶏。最高級のものばかりだった。しかし全部、覇王のための食材だった。
厨房の端に、別の棚があった。
使われていない食材が置かれていた。里芋があった。小麦粉があった。整然と並んでいる主の食材とは違う、雑然とした置き方をしていた。
「それは使わない」と覇王が言った。
「使う」
「なぜ」
「あんたの料理に使わない食材だから」
覇王は答えなかった。
蓮は里芋を手に取った。
泥がついていた。重かった。
覇王の食材は全部、処理が終わっていた。下ごしらえが済んでいた。しかし里芋は違った。土がついたままだった。
鉄片を出した。
里芋に向けた。
切るのではなく、叩く。鉄の重みを使って、割る。刃の鋭さがない分、衝撃で割れる。割れた断面は不揃いになる。
割った。
断面が不規則だった。均一ではなかった。
蓮はその断面を見ながら、考えていた。
覇王の料理は完全だった。一口目から最後まで同じ味だった。食べる者の感覚を相殺して、無に帰す。それは「救済」として設計されていた。争いも飢えも感じなくなるための料理だった。
しかし完全なものは変化しない。
変化しないものは、次の一口に繋がらない。
母が書けなかったのは、その先だった。完全な均一さではなく、次を求める何かだった。不揃いで、予測できなくて、噛むたびに違う——そういう料理の先に、何があるのか。
母はそれを書こうとして、書けなかった。
蓮はまだわからなかった。しかし手を動かすしかなかった。
覇王が動き始めた。
包丁を取った。漆黒の刃だった。
干し貝柱を切った。
音が変わった。包丁が台を叩いた瞬間、厨房の空気の質が変わった。温度ではなく、密度が変わった。覇王の刃が入るたびに、食材が整列していく感触があった。
リンが蓮の近くに来た。
「覇王の匂いが広がってきてる」
「どんな匂いだ」
「全部が一つになっていく匂い。……さっきより速い。前よりずっと速く広がってる」
蓮は里芋に小麦粉をまぶした。
不揃いの断面に、粉が付いた。均一ではなかった。厚いところと薄いところがあった。
油を熱した。
里芋を入れた。
揚げる音がした。油が里芋を包んでいく音だった。断面の不揃いな部分が、それぞれ違う速度で揚がっていく。薄い衣の部分は早く色がつく。厚い部分はまだ白い。
老陳醋を用意した。
揚がった里芋を取り出した。老陳醋を絡めた。
香りが来た。
覇王の整然とした香りの中に、酸の香りが入り込んだ。
覇王が手を止めた。
一瞬だけだった。
スープを火にかけながら、里芋の香りの方を向いた。
蓮はそれを見た。
「あんたの料理は、聴く者に何も要求しない。完璧だから、受け取るだけでいい。……でもこの里芋は、噛む者に何かを要求する」
「何を要求する」
「次を探すことだ。厚いところを噛めば次が来る。薄いところを噛めば別のものが来る。……終わりが来ない」
覇王は里芋を見た。
「終わりが来ないことが、なぜ完成に近いのか」
「わからない。でも母さんが書けなかったのは、そこだと思う」
覇王のスープが完成した。
透明だった。湯気が出ていなかった。完全に均一な香りが厨房を満たした。
蓮の里芋が皿に乗っていた。不揃いだった。老陳醋の色が濃いところと薄いところがあった。
覇王が里芋を見た。
「食べていいか」
蓮は少し驚いた。
「どうぞ」
覇王は里芋を一つ取った。
口に入れた。
噛んだ。
何も言わなかった。
もう一口取った。
また噛んだ。
リンが小声で蓮に言った。
「覇王の匂いが変わった。ほんの少しだけど、違う方向に動いてる」
蓮は覇王を見た。
覇王はまだ里芋を見ていた。皿の上の、不揃いな形の里芋を見ていた。
「……薫が言いたかったことが、これか」
蓮は答えなかった。
覇王が顔を上げた。
「まだわからない。しかし……」
そこで止まった。
続きを言わなかった。
しかしその目が、初めて対面した時とは違っていた。何かを処理しようとしている目だった。完全に均一だったものが、少しだけ揺れている目だった。
厨房が静かになった。
覇王のスープの香りと、老陳醋の香りが、同じ空間に並んでいた。
リンが器を持って来た。
「私も食べていい?」
「どうぞ」と蓮が言った。
リンが里芋を食べた。
「美味しい。硬いところと柔らかいところがある」
「そうだ」
「飽きない感じがする」
「それが目的だ」
覇王はまだ里芋の皿を見ていた。
蓮は次に何をするかを考えた。
まだ終わっていなかった。覇王が「まだわからない」と言った。その先が必要だった。
しかしそれが何かは、まだ蓮にもわからなかった。




