第42話:白紙のページ ――母の日記と、書かれなかった言葉――
石畳が続いていた。
地上の音が消えていた。観光客の声も、北京の風も、ここには届かなかった。壁が厚かった。何百年も前に積まれた石の壁が、外の世界を完全に遮断していた。
リンが蓮の隣を歩きながら、鼻を動かし続けていた。
「下に向かってる」
「階段があるか」
「あると思う。もう少し奥」
廊下が曲がった。突き当たりに、石の階段があった。
下りた。
地下は広かった。
温かく、静かで、食材の匂いが整然と並んでいた。
しかし今回は、覇王がいなかった。
厨房は空だった。
調理台が並んでいた。食材があった。道具があった。しかし人がいなかった。
「覇王はどこだ」とリンが言った。
「わからない。でもここに何かある」
蓮は厨房を見回した。
調理台の端に、棚があった。
道具が並んでいた。鍋、蒸籠、刃物。整然と並んでいた。
その一番奥に、布に包まれた何かがあった。
他の道具と違う置き方をしていた。道具として使う場所ではなく、保管する場所に置かれていた。
蓮は近づいた。
布を開いた。
手帳だった。
表紙に「翠」の文字があった。金箔が擦り切れていた。
蓮は止まった。
自分が持っている手帳と、同じものだった。
違った。自分のものより、状態が悪かった。使い込まれていた。表紙の角が擦り切れていた。持ち歩いた時間が長かった証拠だった。
「……これは」
リンが覗き込んだ。
「お母さんのもの?」
「そうだと思う。俺が持っているのは、翠龍門の引き出しにあったものだ。でもこれは……母さんが最後まで持っていた方かもしれない」
蓮は手帳を開いた。
最初のページから読んだ。
自分の手帳と重なる記録があった。同じ時期の記録だった。しかし内容が違った。自分の手帳には書かれていなかったことが、ここには書かれていた。
大陸を渡った記録。各地で出会った料理人の名前。麒麟会と対峙した場面。
王寒石の名前があった。「止められなかった」と書かれていた。
陳の名前があった。「この人に七本の包丁の使い方を教わった」と書かれていた。
覇王の名前があった。
そのページだけ、筆圧が違った。何度も書き直した跡があった。
彼は間違っていない。ただ、答えが違う。完全な均一さが人を救うと信じている。私はそれが違うと知っている。しかし証明できない。証明するには、私の料理を完成させる必要がある。
その下に、続きがあるはずだった。
しかしページが終わっていた。
次のページを開いた。
白紙だった。
その次も白紙だった。
最後のページまで、全部白紙だった。
蓮は最後のページを見た。
何も書かれていなかった。ただの白い紙だった。
母はここで書くのをやめた。
あるいは、書けなかった。
「証明するには、私の料理を完成させる必要がある」と書いて、その先が書かれなかった。料理を完成させられなかったから、書けなかったのか。それとも別の理由があったのか。
蓮は白紙を見ていた。
リンが蓮の横に来た。
「何が書いてあったの」
「覇王のことが書いてあった。……母さんは、覇王が間違っているとわかっていた。でも証明できなかった」
「証明するには何が必要だったの」
「料理を完成させることだと書いてあった」
「それができなかった?」
「できなかった。……だからこのページが白紙で終わっている」
リンは白紙を見た。
「蓮が完成させるの?」
「わからない。でも……」
蓮は手帳を閉じた。
自分の手帳を出した。
二冊を並べた。
自分の手帳は、母が翠龍門の引き出しに残していたものだった。蓮が旅を始めてから、各地のことを書き足してきた。山西のページには「山西」と自分で書いた。
この手帳は、母が最後まで持っていたものだった。白紙で終わっている。
蓮は自分の手帳を開いた。
北京のページの、王寒石の名前の下に、自分が「山西」と書いた場所があった。
その下に、まだ白紙があった。
蓮はそこに、一行書いた。
覇王の料理を完成させる。
背後で音がした。
石の階段を下りてくる足音だった。
一人だった。
蓮は手帳を鞄にしまった。
覇王が厨房に入ってきた。
二人を見た。
「また来たか」
「そうだ」
「今度は何を持ってきた」
蓮は腰のボロ布から鉄片を出した。
覇王はそれを見た。しばらく何も言わなかった。
「山西の鉄だ」
「そうだ」
「……薫が探していたものか」
「そうだと思う」
覇王は調理台の前に立った。
「見せてみろ」
それだけ言った。
蓮は厨房に入った。
リンが入口の近くに立った。
覇王と蓮の間に、調理台があった。
次に何が始まるのか、蓮にはまだわからなかった。しかし白紙のページに書いた一行が、手の中にあった。




