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四川の焔  作者: 水前寺鯉太郎
大陸遠征・八大料理試練編(北京編)

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42/52

第42話:白紙のページ ――母の日記と、書かれなかった言葉――

石畳が続いていた。

 地上の音が消えていた。観光客の声も、北京の風も、ここには届かなかった。壁が厚かった。何百年も前に積まれた石の壁が、外の世界を完全に遮断していた。

 リンが蓮の隣を歩きながら、鼻を動かし続けていた。

「下に向かってる」

「階段があるか」

「あると思う。もう少し奥」

 廊下が曲がった。突き当たりに、石の階段があった。

 下りた。

 地下は広かった。

 温かく、静かで、食材の匂いが整然と並んでいた。

 しかし今回は、覇王がいなかった。

 厨房は空だった。

 調理台が並んでいた。食材があった。道具があった。しかし人がいなかった。

「覇王はどこだ」とリンが言った。

「わからない。でもここに何かある」

 蓮は厨房を見回した。

 調理台の端に、棚があった。

 道具が並んでいた。鍋、蒸籠、刃物。整然と並んでいた。

 その一番奥に、布に包まれた何かがあった。

 他の道具と違う置き方をしていた。道具として使う場所ではなく、保管する場所に置かれていた。

 蓮は近づいた。

 布を開いた。

 手帳だった。

 表紙に「翠」の文字があった。金箔が擦り切れていた。

 蓮は止まった。

 自分が持っている手帳と、同じものだった。

 違った。自分のものより、状態が悪かった。使い込まれていた。表紙の角が擦り切れていた。持ち歩いた時間が長かった証拠だった。

「……これは」

 リンが覗き込んだ。

「お母さんのもの?」

「そうだと思う。俺が持っているのは、翠龍門の引き出しにあったものだ。でもこれは……母さんが最後まで持っていた方かもしれない」

 蓮は手帳を開いた。

 最初のページから読んだ。

 自分の手帳と重なる記録があった。同じ時期の記録だった。しかし内容が違った。自分の手帳には書かれていなかったことが、ここには書かれていた。

 大陸を渡った記録。各地で出会った料理人の名前。麒麟会と対峙した場面。

 王寒石の名前があった。「止められなかった」と書かれていた。

 陳の名前があった。「この人に七本の包丁の使い方を教わった」と書かれていた。

 覇王の名前があった。

 そのページだけ、筆圧が違った。何度も書き直した跡があった。

彼は間違っていない。ただ、答えが違う。完全な均一さが人を救うと信じている。私はそれが違うと知っている。しかし証明できない。証明するには、私の料理を完成させる必要がある。

 その下に、続きがあるはずだった。

 しかしページが終わっていた。

 次のページを開いた。

 白紙だった。

 その次も白紙だった。

 最後のページまで、全部白紙だった。

 蓮は最後のページを見た。

 何も書かれていなかった。ただの白い紙だった。

 母はここで書くのをやめた。

 あるいは、書けなかった。

 「証明するには、私の料理を完成させる必要がある」と書いて、その先が書かれなかった。料理を完成させられなかったから、書けなかったのか。それとも別の理由があったのか。

 蓮は白紙を見ていた。

 リンが蓮の横に来た。

「何が書いてあったの」

「覇王のことが書いてあった。……母さんは、覇王が間違っているとわかっていた。でも証明できなかった」

「証明するには何が必要だったの」

「料理を完成させることだと書いてあった」

「それができなかった?」

「できなかった。……だからこのページが白紙で終わっている」

 リンは白紙を見た。

「蓮が完成させるの?」

「わからない。でも……」

 蓮は手帳を閉じた。

 自分の手帳を出した。

 二冊を並べた。

 自分の手帳は、母が翠龍門の引き出しに残していたものだった。蓮が旅を始めてから、各地のことを書き足してきた。山西のページには「山西」と自分で書いた。

 この手帳は、母が最後まで持っていたものだった。白紙で終わっている。

 蓮は自分の手帳を開いた。

 北京のページの、王寒石の名前の下に、自分が「山西」と書いた場所があった。

 その下に、まだ白紙があった。

 蓮はそこに、一行書いた。

覇王の料理を完成させる。

 背後で音がした。

 石の階段を下りてくる足音だった。

 一人だった。

 蓮は手帳を鞄にしまった。

 覇王が厨房に入ってきた。

 二人を見た。

「また来たか」

「そうだ」

「今度は何を持ってきた」

 蓮は腰のボロ布から鉄片を出した。

 覇王はそれを見た。しばらく何も言わなかった。

「山西の鉄だ」

「そうだ」

「……薫が探していたものか」

「そうだと思う」

 覇王は調理台の前に立った。

「見せてみろ」

 それだけ言った。

 蓮は厨房に入った。

 リンが入口の近くに立った。

 覇王と蓮の間に、調理台があった。

 次に何が始まるのか、蓮にはまだわからなかった。しかし白紙のページに書いた一行が、手の中にあった。

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