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四川の焔  作者: 水前寺鯉太郎
横浜中華街編

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第4話:炎を捨て、水を編む ―広東の真髄と、冷徹なる入門―

無角が去った翌日の夜、蓮は翠龍門の厨房に一人でいた。

 コンロに火はついていない。カウンターに母の写真を置いて、ただそれを見ていた。

 無角の皮は完璧だった。技術の密度が違った。自分の小籠包が勝てたのは、発想の差だ。次に同じ発想を使っても、もう通じない。四川の熱量は確かに自分の武器だが、それ一つでは、麒麟会の持つ幅の広さには対応できない。

 蓮は包丁を布で包み始めた。

 引き戸が開いたのは、そこへだった。

 裕太郎が顔を出した。翠龍門で長年働いてきた、母の古い弟子だ。蓮が幼い頃から厨房にいた人で、今は蓮が不在の時の店を任せている。

「……出るつもりか」

 問いではなく、確認だった。

「広東を学んでくる。翠景楼の陳さんに頭を下げる」

「陳さんか」

 裕太郎は少し黙った。それから、カウンターに腰を下ろした。

「……お前の母さんも、一度だけ陳さんに頭を下げたことがある。俺はその時のこと、今でも覚えてる。陳さんは三日間、返事をしなかった。薫さんは三日間、翠景楼の前に立ってた」

「そうなのか」

「結局、何を教わったかは俺には教えてくれなかった。でも帰ってきた時の顔が、違った」

 裕太郎は立ち上がり、厨房を見回した。それから蓮の方を向いた。

「行ってこい。店は俺が持つ」

 それだけだった。蓮はうなずいた。

 翌朝、翠景楼の裏口に立った。

 白い外観の名店だった。表通りに面した正面とは違い、裏口は狭く、業者の出入りだけで十分なほどの幅しかない。蓮はそこで三十分待った。

 現れた陳は、煙草を指に挟んでいた。五十代半ば。体格は大きくないが、手だけが異様に大きかった。料理人の手ではなく、何かを長年素手で扱ってきた人間の手だった。

「四川の子が何の用だ」

「広東の水を教えてほしい」

 陳は煙草の煙を細く吐いた。蓮を一度、足元から頭まで見た。

「包丁は持ってくるな。名前も要らん。今日から一か月、裏庭で乾物の世話だけしろ。それができたら話を聞く」

 陳は裏口に消えた。

 翌朝から、蓮は裏庭に通った。

 三日目の朝、蓮は百匹を超える鯛の鱗を剥いでいた。

 冷たい水に手を浸けたまま、一匹ずつ処理する。包丁は使わない。陳の指示通り、専用の鱗取りだけを使う。力を入れすぎると皮が傷む。かといって弱すぎると鱗が残る。その加減を、指先が水の冷たさで感覚を失いながら探り続ける。

 四川料理では火が主役だった。強火で食材を変容させ、スパイスで重ねていく。しかし広東は逆だった。素材が持っているものを、できる限り損なわずに引き出す。それは足し算ではなく、余計なものを取り除いていく作業に近い。

 一週間が過ぎると、蓮の手の動きが変わった。

 鱗を剥く力が、自然に均一になってきた。意識しなくても、素材の抵抗に合わせて力が調整される。指先の感覚が、冷たい水の中でも細かいものを拾い始めた。

 十日目、陳が初めて声をかけてきた。

「お前、昨日から鮑を触っているな」

「戻し汁の様子を確認していた」

「何か気づいたか」

 蓮は少し考えた。

「……立ちすぎている。香りが」

 陳は何も言わなかった。それだけ聞いて、厨房に入っていった。

 十四日目の昼過ぎ、陳が席を外した隙に、蓮は戻し汁を指ですくった。

 舌に乗せた瞬間、感覚が溢れた。

 旨みそのものは本物だった。干し鮑の、長い時間をかけて凝縮された深い旨み。しかしその奥に、別の何かが乗っていた。甘く、脳の奥に直接触れようとする感触。旨みを増幅させている。通常の三倍か、四倍か、感覚が揺れて正確には測れない。

 これは魔睡花の変異種だと、蓮はすぐにわかった。

 広州で使われていた毒は、感覚を麻痺させる方向に働いた。しかしこれは逆だ。感覚を過剰に開かせる。食べた客は圧倒的な美味を感じる。しかしこの味に慣れていくと、普通の料理が何も感じられなくなる。依存させて、感覚を支配する。

「勝手に味を見るなと言ったはずだ」

 振り返ると、陳がいた。

 いつから立っていたのかわからなかった。煙草は持っていない。代わりに、細長い広東包丁を手に持っていた。普段、厨房で使っているものとは別の、個人の道具だった。

 蓮は戻し汁を指から拭わなかった。

「これは魔睡花の変異種だ。感覚を増幅させる方向に作用する。麒麟会がここにも入り込んでいる」

 陳は答えなかった。

 ただ、蓮の目を見た。

 その目が何を言っているのか、蓮にはわからなかった。怒りでも、肯定でも、否定でもない。何かを測っているような目だった。

「お前が触った鮑は、もう使えない。今日の分、お前が捌き直せ」

 それだけ言って、陳は厨房に戻った。

 夜、裏庭の片付けをしながら、蓮は考えた。

 陳は驚かなかった。

 毒の話を聞いて、否定もしなかった。「そんなものが混じっているはずがない」とも言わなかった。ただ鮑を捌き直せと言った。

 陳がどこまで知っているのか。翠景楼の中で、何が起きているのか。

 蓮は裏庭の水道で手を洗った。冷たい水が指先から肘まで流れた。

 十四日間、この水の中に手を浸けてきた。最初は感覚が麻痺すると思っていた。しかし今は逆に、冷たい水の中でも指先が細かいものを拾えるようになっていた。

 広東の水は、奪うのではなく、研ぐのかもしれないと蓮は思った。

 厨房の明かりがまだついていた。陳の影が、窓に映って動いていた。

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